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タイトルは
(旧)娘。魂の唯物論的な擁護のために
と変更し、はてなダイアリーのほうを
娘。魂の唯物論的な擁護のために
として存続する予定です。
『シンデレラ』に関しては、現場に縁のない痛井ッ亭。が言うべきことはないので、かめちゃんがポーシャ役で頑張ったことについても何も触れていませんでした。
なのに、このタイミングで『シンデレラ』に触れるのは、ネット徘徊系廃人ヲタとして、道重さゆみに、道重さゆみの思いに心から共感して胸が震えたからです。
あー、このままシゲさんヲタになってしまいそう。
ま、そうはいっても、かめちゃん溺愛なんで、絶対的な一推しの地位はいささかも揺るがないので、かめちゃんは安心すること!
しかし、ここでは道重さゆみの話をするのだ。
『シンデレラ』では、リーダー高橋愛が主役のシンデレラ、これは実力からみてそれしかない配役であって、決して事務所のえこひいきとか言う話ではない。相手役の王子様は新垣里沙、この役はどの程度重みがあるのか正直よく分からない。そして、亀井絵里と田中れいながポーシャとジョイというイジワルな義姉の役、これはかなりセリフも多く、劇の雰囲気を盛り立てる重要な役だった様子。
劇のストーリーにおいて欠かせない意味を持つ重要な役どころはここまで。そして、現モーニング娘。の中核である56期メンバーで、ここまでで名前が出ていないのは唯一人、道重さゆみ。
78期も比較的不遇な役を当てられている様子だが、6期なのに、8期の後輩とワンセットで「妖精」の役、しかもセリフのない役を当てられれば、さすがにショックを受けるなというほうが無理だろう。
その昔、小学校の学芸会などでは「立ち木の役」なんてものがあったらしい。都市伝説かもしれないけれど。今そんなことをすればモンスターペアレンツが学校に来襲すること請け合いだ。道重さゆみは、ヤンタンでさんま師匠に、お前はどんな役やワカメか、と、おちょくられて、「まあどちらかといえばワカメに近いです」と答えていた。立ち木の役みたいなものだ、と。
もちろん、道重さゆみはその役を受け入れ、自分を納得させようと努めたはずだ。運動音痴でダンスも下手だし、歌唱力に到っては、さすがに6期オーディションの驚愕こそ昔の話とはいえ、まだまだ、歌唱力?なにそれ?食えるの?ってか、歌の良し悪しは歌唱力とは関係ないよ、という呪文を唱えるぐらいしかできない自分であることは、もちろん自覚している。歌と踊りが重要なミュージカルの舞台で自分に大役が来るなんて甘い夢は見ていない。でも。
先日(10.11)のヤンタンで、高橋愛の代役として出演した亀井絵里を交えて『シンデレラ』の話になったとき、かめちゃんにはセリフがたくさんあったので、さんま師匠は「道重は負けたんか」と茶化し(勝ち負けで物事を判断するこの茶化し方はいかにも下衆だが、あえて下衆に徹するのがさんま師匠の芸風でもあり体質でもあるのでしかたがない)、それに対して道重さゆみは「惨敗です」
と答えている。亀井絵里は、さゆはフライング(空中飛行)をやったのでそれは羨ましかった、と優しくフォローしていたのだが、それすらさんま師匠にネタにされてしまった。上から目線で哀れまれるのもイヤやな。
道重さゆみは、自らのソロラジオ番組こんうさP(9.23)で、すでに、セリフがないことにショックを受けたという報告をしていた。
シンデレラの台本を初めて見た瞬間の天使さゆみと小悪魔さゆみです。
天使「セリフは少ないけどその分踊りでがんばるわ」
小悪魔「助かった」
いやこれ結構ねぇ、両方あるんですよね。あのホントに初め、台本をもらって見た時、ホントにあの、ビックリっていうか、あの、なんかショックで、ホント、セリフが無い事に関して、初めホントに、あの、本番は作ってくださって、あの、何回か口を開いて言葉を発したんですけど、初め台本読みとかは何もセリフを発してなかったんですね。だから、『その分踊りで頑張るわ』っていう前向きにすらなれなくて、『さゆみはこの一ヶ月何をして過ごすんだろう?』と思って。『えっ、何をするの?』って、本当に『どうしよう』って思ってたんですけど、こうなんか、先生とかもやっぱちゃんと考えてくれてて、振り付けでちゃんと、あの、ちゃんと妖精は、ここでこういう役目をするからね、って説明を受けて、ちゃんと自分の中では納得して、あの、ステージに立ったんですけど、こうセリフをもらった時、『まぁ、お妃様探しですって?』って言われた時に、すごいそのセリフを説明してくれる方が『道重さんにすごく難しいセリフがきました』って言い方で言われたんですよ。で、そのセリフ、だからさゆみすごく長いのかなと思って、すごい緊張してたんです。したら『お妃様探しですって?』だったんですね。『あっ、難しいですね〜』って言って(笑)でも、でもその中ではやっぱり、あの〜難しいって言ってくださったけど、あの多分、そう言ってハードルを上げといて、『簡単だから安心してね』っていう優しさだと思うんですけど、さゆみにとっては、すごい逆にそれがもうなんか傷ついちゃって、すごいショックだったんですけど、でも結果、すごい『シンデレラ the ミュージカル』は、ハイ、すごい楽しかったし、すごい大成功に終わったと思うので、ハイ、ホントに良かったなと思います。
そして今週のこんうさP(10.14)の『今週のお姉ちゃん』のコーナーで、問題の核心に触れる発言があった。この発言は「お姉ちゃんは人を苦しめようとか、醜い部分はない」という流れで、お姉ちゃんがいかに優しい人かを説明するためになされた発言である。そして、道重さゆみが最近一番お姉ちゃんの優しさを身に染みて感じたのは、『シンデレラ』の時期だったのだ。
さゆみ、ぶっちゃけで言いますと、あの、シンデレラの時期、すごい、おうちで態度悪かったんですよ(笑)ふふふ。あのねホントにね、毎日毎日、同じ場所に行って、あのー、なんか多分性にあってないっていうか、毎日毎日同じ場所に行って、毎日2回公演で、こう毎日毎日同じことして着替えもたくさんあって、着替えたくさんあるのにセリフはまったくないし、もうなんかもう、なんかちょっと、ちょっとおかしくなってたんですよさゆみ、ちょっとまあぶっちゃけ今、今だから言えるんですけどちょっとおかしくなって。だからおうち帰っても、誰が悪いわけじゃなくて、喋らなかったんですよ、てか喋れなかったんです。なんか、舞台の上で喋ってないからかわかんないんですけどうちでも喋れなくて。もうホントに喋らなくなっちゃって。もうとりあえず、なにを言われても「うん」とか、お母さんに、お母さんもすごい、なんかその時期さゆみに気を遣ってくれてて、「お風呂入る?」とか言っても、あーちょっと喋ったら泣きそうなんですけどそのこと考えたら、「うん」とかなんか「うん今いいや」とかそういうことしか喋れなくなっちゃって。ホントに(聞き取り不能)のことを考えたらなんかホントにおかしくなってたんですよ。で、そういう時もやっぱり、あの、お姉ちゃんは……こう……(笑)泣きそうなんですけど(笑)……お姉ちゃんも、なんか……すごい……なんか……支えてくれて……すごい良かったなあ、と。もうイヤ(笑)……もうイヤだ恥ずかしい、もうイヤだ、ちょっともうホントすいませんねもうこんなね、すごいね、お姉ちゃんに支えてもらったなあと思って、良かったなあと思います。じゃあ続いていきますね、気を取り直して行きます。
この発言がネット上(とはいえ「狼」界隈にすぎないが)で大騒ぎになったのは何故だろう。道重さゆみが貰った役に不満を言っている、ということが問題なのであれば、9月23日の時点でそうなってもよかったはず。しかし、そうではなく、今このタイミングで問題視されるに到ったのは、その時期彼女がおかしくなるほど落ち込んで、不貞腐れていたことを自ら告白し、ラジオであわや泣きそうになったからなのだろう。
この件に関して、私が言いたいことは唯ひとつしかない。
道重さゆみの涙は、役への不満、セリフがなかったことへの抗議でもないし、断じて「事務所の高橋愛ゴリ推し」への批判でなどあるはずもない、ましてやそれを「造反」と捉えることなどまったく不当だということだ。それは単に発言の解釈として不当なだけではない。道重さゆみの発言の真実性の持つ美しさを捉えそこねている点においても、彼女の魅力を正当に評価できないことにおいても、何重にも不当なのである。
もちろん道重さゆみには、もらえた役柄への不満やショックは当然あった。しかし、ラジオで喋りながら泣きそうになったのは、そのためではない。
あの涙は、そんなことで落ち込んでしまい、不貞腐れて、何の罪もない家族に対してさえ態度が悪くなってしまった自分自身の弱さ、不甲斐なさに対する悔し泣きなのだ。わたしはそう思う。だからこそ、お姉ちゃんの優しさが身に染みるだけではなく、そうやって慰められている自分を、今また思い出しながら泣きそうになっている自分を、彼女は「恥ずかしい」
と言ったのだ。この「恥ずかしい」という言葉には、彼女の誇りが、自尊心が、意地が込められている。
ラジオで本音を曝け出せることは、道重さゆみの強さだ。
本当の感情で溢れてしまい、あられもなく取り乱してしまった道重さゆみは、途方もなく美しい。あたりさわりのないタテマエの羅列、毒にも薬にもならない安全な笑顔を振りまく「アイドル」を、彼女は超越する。その美しさは、彼女自身が表現する高度なアイドル性や、写真集やDVDで見せる極上のエロス表現にも増して、尊く、真に感動的な、人間性そのものの美しさなのだ。
2006年の秋頃に構想を開始、2007年の春に執筆を開始して、途中で美貴様の事件があって長く中断してしまい、ほとんど完成を諦めかけたこともありましたが、ようやくこうして完成・公開に辿りつくことができました。
この小説には、愛しのかめちゃんへの(そして愛しの推しメンたちへの)痛井ッ亭。の愛を目一杯注ぎ込みました。(ただし、あくまでフィクションなので、実在する人物・団体、亀井さん、モーニング娘。さん、つんく♂さん、所属事務所などには一切関係ありません。ということで)
みなさんに、是非この小説を読んでいただき、そして楽しんでいただけると嬉しいです。
かめちゃんの持つ無限の魅力のうちの、ごく一部でも表現できていれば嬉しいです。そして、かめちゃんを愛することができる幸福、恋するということの喜び、苦しみ、尊さを、みなさんと共有できれば嬉しいです。
七里氏の、このエントリに関する疑義を、備忘録として取りまとめておく。
現在でも、「学会(笑)」界隈などで参照されることの多いエントリであるから、(本来なら敢えてそうする必要はないかもしれない(理由は後述)のだけれど)、疑義をまとめることにも多少の意義はあると考える。
(以下引用文はすべて同エントリから)
現在のわれわれの問題は、辻希美の結婚が、はっきりとした出口として機能しないということにある。
これが何故問題かといえば、「アイドルは恋愛してはいけない、ましてや結婚してはいけない」「結婚するならアイドルを辞めるべき」という主張が当然の前提とされているからであろう。
アイドルの結婚は、かつて物語の出口であった。
「結婚したらアイドルの物語はそこで終了するのが本来の姿」という訳だろう。
われわれが、つんく♂を辛うじて信じるのは、彼がこのアイドルという物語を語り直そうと、すくなくとも当初は、愚直に願っていたからである。
だが「われわれ」とは誰なのか。少なくともそれは私のようなファンを排除して成立する「われわれ」であるように思われる。そして、つんくが「アイドルという物語を語り直そうと」「愚直に願っていた」というのは、事実なのだろうか。(わたしには当時のことを実証的に証明する力はないので分からない)
「アイドルと見られるのは結果論、モーニング娘。の本業はあくまでも歌手」と主張し続けるつんくを僕は知っている。彼自身が「イロモノ」視されつつ、したたかに「アイドル的存在」として生き抜いてきたことを考えると、彼が、処女性に担保されるような守旧的な「アイドルという物語」をモーニング娘。によって語りなおそうとしていた、という説は、にわかには信じがたい。
つんく自身、『ASAYAN』という番組の中で「モーニング娘。をプロデュースする」という役割を与えられつつ、自身も「新人プロデューサーとしてプロデュースされる」立場であったし、番組を成立させるための駒だという自覚もあったはず。番組演出的に「悪役を演じる」ことにも自覚的だったはず。当然、そこで産み出されようとしている「アイドル」なるものについても批判的な視点(それが「テレビのネタ、壮大なヤラセ」であることをも含めて)があったのではないだろうか。
『ASAYAN』によって額縁がつくられてみると、なるほど、すべてが再び可能であるようにみえた。既存の物語を信じるのではなく、その額縁のなかで、あらためてアイドルの回復に向けて言説を組織していくことができるならば、それをいつか、われわれの物語と呼べる日がくるのかもしれない。われわれは、物語を信じたのではなく、物語の再話の可能性を信じた。
「アイドルの回復」とはアイドルを「われわれの物語と呼べる日がくる」ということ。七里氏は「われわれは、物語を信じたのではなく」と書いているが、物語への信仰が完全に捨て去られていたのなら「物語の再話の可能性を信じ」ることもまた不可能ではないだろうか。「われわれ」の中で「物語」は生き延びている。アイドル神話の脱神話化は終了していない。そしておそらく、旧来のアイドル神話の回復を夢見る者こそが氏の言う「われわれ」なのだろう。
この数ヶ月で明らかになったことは、われわれが、この物語にどんな出口も想定していなかったということである。
『ASAYAN』という番組はそもそも、制作する当事者にも、もちろんそのなかで「踊らされている」出演者たちにも、まったく先の見えない冒険、最初から大団円的な「出口」を想定していなかったのでは。(モーニング娘。自体が「紅白に出て終わり」、あるいは「三年持てば御の字」という弱気な将来予測はあったにせよ)
つまりモーニング娘。にはそもそも「出口」など用意されていないのでは。それはモーニング娘。を作る側にとっては、決して「この数ヶ月で明らかになったこと」ではないだろう。物語には結末(出口)が必要なのだとすれば、モーニング娘。は反-物語であろう。
モーニング娘。は、インターネットを物語の基盤とした、はじめてのアイドル
ほんとうだろうか。「基盤」はあくまでも、テレビという既存のメディア(及び雑誌・書籍などの既存の出版メディア)への露出にあり、ネットでのファンの盛り上がりは、基本的に既存メディア上における動向への反応なのではないだろうか。
以前に、古参らしきファンのかたから「ネット人気がモーニング娘。を支えている」という内容のメールをいただいたことがある。ネットの盛り上がりが途絶えればモーニング娘。(やハロプロ)はダメになってしまう、という書き方だったが、わたしは反論した。モーニング娘。が絶大な人気を誇っているからこそネットが盛り上がるのであって、因果関係が逆転しているのでは、と。この考えは今でも変わらない。
近年では、リョーカクこと両角誠氏のように、ネット上のファンにちょっかいをかけてくるテレビ番組製作者もいるけれど、例外的存在だろう。メディアの製作者は、ファンサイト、ブログの類いなどほとんど見ないし気にかけていない、という証言をいくつも目にしたし、それが現在でも実情であろうと考える。
(ハロモニ@のSNS王国におけるファンの「意見」が、どれほど番組制作に反映したのか、わたしにはよくわからない。)
モーニング娘。が、もっとも興味深いアイドルでありえたのは、それがもっとも多くの言説を引き起こしたアイドルだからであり、そしてその言説が、強く物語の結末を望んでいたからである。
ここにも論理の転倒があるのではないか。「それがもっとも多くの言説を引き起こした」のは、まさに、モーニング娘。が事実「もっとも興味深いアイドルで」あったことの証であり、因果関係が転倒していると思える。
「モーニング娘。」というグループ名の表記がすでに、閉じた物語への欲望を、句点によって体現していたことに注意しよう。
これは、そう解釈することも可能ではあるが、脳内妄想にすぎないとも言える。事実としては「。」はタカハタ秀太氏のテロップ編集上の芸風であり、それが、グループ名に採用されたのは、番組MCのその場の思い付きである、というのが、番組の公式見解。この見解が事実にせよ、周到に演出されたものにせよ、それが表現するのは「MCの思いつきで「。」が付いたり付かなかったりしてもいいような軽い存在=企画モノ」という醒めた視線ではないだろうか。それはむしろ、「物語」への批判として機能するものであるとも言えそうだ。
今日もある人が、矢口を信じると主張する。最初は控えめに、しかしやがて、信じる気持ちを掻き集めるようにして。「(狼)」板の住人たちは、それは状況証拠からして、可能性の少ない身振りだといって、糾弾してくるかもしれない。しかし彼は、あの手この手で、矢口を信じる方法を紡いでいくだろう。
この「信じる」とは、一体何を信じるのだろうか。「処女性」?「性交をしていない」という可能性?
矢口真里本人が、最近、「恋愛を続けながらアイドルでいることは難しいと言われて、だったら芸能界を辞めてもいいです、と言った」こと「恋愛を終わらせるのは違うと思ってモーニング娘。を脱退した」ことを証言している(グータンヌーボ)。
だが、問題は、そういう事実関係にあるのではなく、何故、ファンでありつづけるためには「信じる」必要があるのか、という問題だと思われる。(信仰そのものに内在するイデオロギー性の問題)
現実とは、したがって象徴的には、アイドルが排泄をしない極小の可能性に賭けるなけなしの勇気と、アイドルも排泄をすると考えることを自分に許す諦めとが、激しく衝突するときに開かれる間隙以外のものではない。
その「間隙」を「現実」と定義する時点で、このエントリが、悪い冗談か、脳内妄想の一種でしかないことが明らかになるように思われる。エントリ全体が「冗談」なのだとしたら、それに、真面目に対応する者は馬鹿を見ることになる。(ネタにマジレスされてもw という)
しかし、これが、仮に本気で書かれたエントリだとするなら……アイドルが排泄しないという可能性が「極小」であっても存在し、それを信じることが「勇気」だとされている時点で、これは電波系の言説だと思わざるを得ない。そういう「勇気」を持つことが、氏の言う「われわれ」であり「ヲタ」であることの条件なのだろうか。
「アイドルも排泄をすると考えることを自分に許す諦め」、なぜ、それは「諦め」なのだろうか。それこそ、現実を直視する勇気を持たないことの告白であり、心地よい閉鎖的な「アイドルの物語」という繭の中で永遠に夢を見ていたい、夢から覚めたくないという願望、その願望を正当化するために「現実」を捻じ曲げようとするイデオロギー性の現われなのではないか。
いまモーニング娘。においてもっとも排泄をしないのは、むしろ道重さゆみだから
そうだろうか。「実は黒い」という側面を強調し、「さゆみは人の豚ですけどね」と言い放つ、圧倒的に革命的な存在は、わたしにはむしろ、「アイドルだってオナラはしますよ」と『うたばん』で正直に申告した矢口真里の「ぶっちゃけ」精神を正しく継承し、より徹底しているように思える。(アイドルを演じることに自覚的な道重さゆみの批判的アイドル性については、これで語りつくせるものではもちろんないけれど)
(実際、「肛門は無いがウンコはする」などという議論は、言語のうえでありえるというだけの、悪しき衒学趣味に違いない)
それはたしかにペダンティックだとも言えるけれども、そもそも人が排泄をするか否かを議論することが電波系。(ネタでないとしたら、という限定をつけるけれど)
アイドルという「不可能な恋愛」の物語を、あらためて立ち上げてしまったわれわれは、一体どのような結末を自らに与えることができるのか。言説を積み上げているだけでは、この恋愛は終わらない。そして、われわれは、この言説を膨らませることしかしてこなかった。いったい、すべてが、はじめからやらなければよかったことなのか? すべてが、いつか過ちに気づくための、わざとらしい迂回路だったと言うのか?
「われわれ」以外のモーニング娘。ファンの中には、最初から、それが「わざとらしい迂回路」であることに自覚的、もとい、そのようは迂回はしなかった人が大勢いると思います。
出口のない物語を紡がせてしまうことは、この「不可能な恋愛」の罪である。
この表現には、条件付で賛同できる。その「罪」は、断じてアイドルの罪ではない。アイドルに「アイドルの物語」を押し付けた者の罪、あるいは物語そのものの「罪」であろう。そこに物語批判の入り口が口を開けて「われわれ」の入場を待っているのだが。
「現実」と呼ばれているものに抗して、信じる気持ちを組織するために戦ってきた、その努力の意味自体は否定されない。
そうだろうか。「努力」自体の方向性が根本的に間違っているなら、それを自己批判するべきなのではないかと、わたしには思える。
七夕の前日の、このような発言がぼくには心強い。
770 :名無し募集中。。。:2007/07/06(金) 20:17:35.82 0
ちょっとまて妊娠したとは書いてあるけどエッチしたとは書いてない
まだ大丈夫だ
「心強い」、、、、。まるで、処女懐胎の神話を鵜呑みにするような話であるが、それを、
信じる気持ちを延命させようとする意志だけが、理性を聖性に乗り入れさせる。
と持ち上げるのに違和感を感じずにはいられない。(わたしが、あらゆる宗教の欺瞞性を指摘するアドルノの徒だからであろうか)
理性を、そしてときには人生をさえ食い破って、吹き出してくる信じ易さ。つまり、人間の偉大さよ。
「信じ易さ」は「偉大さ」なのだろうか。偉大だと持ち上げられれば、高価な壷を売りつける霊感商法や、安手の新興宗教や、オーラの泉なんかにも手もなく騙されてしまいそうで、他人事ながら心配になる。
アイドルの物語は、性と恋愛という謎に、謎としての豊かさを備給しつづける。したがって、アイドルにとっての心の仕事は、その物語を読ませるよう誘いつつ、その結末を隠蔽しつづけるという点にある。それは、「物語」めいた演技と「現実的」な暴露の演技との、あるいは、演じられる客体と演じる主体との、無限の弁証法に違いない。
この一文は理解できる。だが、七里氏のエントリは、「現実的」であることを否定し、一方的に「物語」を持ち上げているように、わたしには思える。現実を直視しなければ、その弁証法は機能せず、いつまでたっても「アイドルの物語」は止揚されず、保守反動的な概念に留まるほかないのではなかろうか。
われわれの愛に値するのは、役に立たないものばかりだ。そして、アイドルへの愛は、その役に立たないものの重要性を、卑小な生活のなかでなお守っていくための、里程標としての役割を果たしてくれているのだ。
この一文は理解できる。
そして、「アイドルの物語」は、擬似恋愛やヲタの自慰行為の安寧秩序を保証するものとして、たいへんに「役に立」つわけだが。
「役に立たないものばかり」が「われわれの愛に値する」ならば、ぼくたちは、「アイドルの物語」を逸脱し、それを批判するような「アイドル」こそを愛するべきであろうに。
以上、とりとめなく疑義を並べてみた。
このエントリを再読してみて、総論的に言えることは、このエントリからは「他者の痛みに対する想像力」を読み取ることができないということだ。ここには、ヲタの論理ばかりがある。「われわれ」の「われわれ」による「われわれ」のための「アイドルの物語」が称揚されるばかりだ。そこにアイドルをやっている現実の少女達への、少女たちの痛みへの共感はあるだろうか。普通に食欲と性欲にさいなまれつつ、食べ、排泄し、ダイエットし、オシャレし、恋愛もする少女たちの「現実」が抱える困難さに対する共感はあるだろうか。
これだけの立派な文章表現ができる七里氏が、そのような想像力を持ち合わせていないとは思えないのだが、しかし、このエントリを読む限り、氏は、むしろ現実に直面することをあくまでも回避し、現実を「卑小」と見なし、「物語」へと逃げ込むことを「勇気」であると語るばかりだ。そこにある種のイデオロギーの働きを見ることは自然だし、そのイデオロギーと、いわゆる「ヲタの倫理」との密やかな共犯関係を疑ってみることも無益ではないだろう。
以上の疑義とは離れるが、やぐっつぁんが、みきちゃんがモーニング娘。を「脱退」するにあたって、ののやかおりが出産を決断するにあたって、どれほど悩み、巨大な力と戦いながら、それを選択したか、ぼくたちは、容易に想像することができる。
その「巨大な力」において、普段はアイドルになど鼻も引っ掛けない一般メディアや世間と、保守的な「アイドルの物語」の護持を切望する一部ヲタとの利害が一致し、アイドルのイメージを損なうアイドル、アイドルの掟やら約束やらを破ったアイドルへの包囲網を形成する連合軍となる。
この連合軍の力は、「清純」を称揚する保守的性意識を守りたい世間と、「アイドルの職業倫理」という大義名分に支えられた文化産業の商業的合理性と、「アイドルに裏切られたくない」という身勝手なヲタの利害とが一致して、ほぼ鉄壁である。この連合軍は、これからも、「アイドルの規範」を逸脱し、「アイドルの物語」を綻びさせかねない危険な存在を次々と排除し続けるであろう。ぼくの愛しい推しメンたちも、いつこの連合軍による酷薄な一斉掃射を受けて、その地位を追われるか分からない。
これら連合軍の利益の総体と、現実に生きて心に血を流して苦しんでいるアイドルたち、推しメンたちの人生とを、秤にかけるまでもなく、無条件で後者を擁護する者こそ、ぼくは「ファン」だと思いたい。
仮想世界で仮想人格を操り、まさしく「第二の人生」を自由に楽しめる。
現実には出来ないことが何でも出来る。
いかにも「オタクな人たち」が熱狂しそうなサービス……
だが、どうも好きになれない。
セカンドライフには現実の企業が投資して、宣伝活動も出来る。
仮想のアイテムを販売する。
アイテムはリンデンドルという通貨で購入し、通貨は現実のドルと交換できる。
現実の資金を投入し、セカンドライフで商売をし、成功したものが、現実にも利益を挙げる。
それで、生計を立てている者もいる。
それは、オタク的な空想の世界に、現実の経済原則を持ち込むことではないのか。
遊びを、仕事へと変えてしまうものなのではないか。
それが、つまらない。
夢の世界をくだらない現実で汚すものに思える。
メイド喫茶などの萌え産業にも同じ匂いを感じる。
マージャンをする人は、お金を賭けないと燃えない、という。
それは「負けたら痛い」というスリルを増す限りでは肯定できる。
それは人生を遊びに消費することだから。
しかし「買った金で生活しよう」というのは、いただけない。
それは遊びを労働に変えることだからだ。
賭けで勝ったら、全部、奢る、パーっと使う。それは、遊びの「倫理」として正しいことなのだ。
遊びに金がかかるのは仕方がない。
むしろ、はてしなく蕩尽できるならそれに勝ることはない。
しかし、遊びでお金を稼ぐことは、遊びを汚すことに思えてならない。
◎舛添氏にピリピリ=「仕事増えるかも」−厚労省
2007年08月27日17時30分
自民党の舛添要一氏の厚生労働相就任に、安倍政権を揺さぶった年金問題などの対応に追われる厚労省内には、早くもピリピリした雰囲気が漂い始めた。
厚労省のある幹部は「はっきり物を言う人という印象が強く、仕事も増えるのでは。正直言って複雑な心境です」と戦々恐々とした様子。
別の幹部は「論客でこわもてという印象。これまでの仕事では通用しなくなるかもしれない。介護は相当こだわりを持って勉強しておられるようだし、いい仕事をされるのでは」と話していた。
「舛添か……」
「これはマズイことになったのだ」
「なったのだ」
「酷使されかねないですばい」
「ですばい」
「冗談だよね? まさかオレたちに本気で仕事させる気じゃないよね?」
「それがマジらしく」
「空気嫁」
「KYKY」
「だいたいさー、こうなったのはオレたちのせいなワケ?」
「違うべさ」
「歴代の諸先輩方がなにもかも先送りしてきたからジャマイカ?」
「禿同」
「そのツケをなにもわざわざ今オレたちが払ういわれもないよね」
「だよねー! だよねー!」
「入省年度でこんなに業務に格差があるのは差別だよ」
「憲法14条法の下の平等に反するな」
「われわれが諸先輩同様仕事をさぼることは憲法で保障された人権」
「舛添の人権侵害を断固糾弾しる!」
「前例どおり先送りすべき」
「前例は役人の憲法だからな」
「だいたいさー、なんでオレたちが東大出て国家公務員になったと思ってるワケ?」
「仕事しないで高給とって天下って老後は美味しい生活するため」
「常識じゃん」
「間違っても五千万件の名寄せ作業とかで愚民以上に酷使されるためではないわな」
「ぶっちゃけありえなーい!」
「これは舛添をどうにかしないとな」
「かといって曖昧トークで煙に巻くのは」
「通用しないべさ」
「正面から対決して堂々と論破しる!」
「お前がしる!」
「もっと無理だろ」
「どうする……」
「うーむ」
「おまいら東大脳の実力を見せるときが来ましたよ」
「うむ。総力を結集すべし」
「あいつは何回も結婚離婚繰り返してるな」
「うむ」
「女には脇が甘いんジャマイカ?」
「なるほど」
「ハニートラップだな!」
「さすがエリート官僚発想が冴えまくり!」
「さっそく舛添新大臣を囲んで、超高級クラブ『役人天国』でお勉強会だな」
「セッティングよろしく」
「かしこまりー!」「かしこまりー!」
「裕子ママに頼んで綺麗どころを何人か」
「刺客だな」
「ぼったくられない?」
「金は使うべきところではケチらず使うんだ」
「研修費でナンボでも落とせるべさ」
「なんのために裏金を溜め込んでると?」
「いざとなったら使途不明金」
「ソッカー、勉強になるなあ」
「よし、今から舛添追放に全力を挙げるぞ」
「おー!」「おー!」
「それまで年金問題は」
「棚上げ」
「舛添追放完了したら」
「永遠に棚上げw」
「wwww」
「よーし!やる気でた!」
「おまいら必死杉ww」
「快適な労働環境と、省益と、天下り先確保のためなら、命を削ってでも」
「久々に本気出すか」
「♪役人の未来は」
「♪Wow wow wow wow」
「♪庶民がうらやむ」
「♪Yeah yeah yeah yeah 」
「♪天下ろうじゃないか」
「♪Wow wow wow wow」
「♪Keep! Keeping the 省益〜〜〜」
ノノ*^ー^)<あのー、日本の未来は?
だいたひかる<どーでーもいーでーすよー……
あなたをあきらめない
あなたの小さな手を離さない
あなたを信じることが あなたの希望となるのであれば
あなたの希望が ふたたびわたしたちを照らすことを
わたしたちは信じなければならない
わたしたちは信じることができる
わたしたちは信じる
嘲笑と 失望と 軽蔑と
愛のない関心と 愛のない無関心に取り囲まれ
その翼をもぎとり地に引きずり下ろそうとする冷酷な力に
思わず膝を屈し 地に臥してしまっても
あなたは立ちあがらねばならない
あなたは立ちあがることができる
あなたは立ちあがる
モーニング娘。を奪われ ガッタスを奪われ
GAMさえも奪われてしまったとしても
その小さな顔に吹きつける砂塵混じりの逆風の強さに
思わず顔を背けてしまっても
ふたたび 毅然として 真正面を向いて
あなたは歌わなければならない
あなたは歌うことができる
あなたは歌う
あなたが人を幸せにすると同時に 自分も幸せになることは
許されないことなのか 不可能なことなのか
いや違う それは簡単なことだ
あなたを「アイドル」という概念の処刑台に磔にする
定義付けという暴力から 身を引き剥がし 逃れればいい
あなたは自由になる
「アイドル」に「処女性」が求められるというなら
そんな安っぽい称号など 熨斗をつけて丁重に叩き返せばいい
「アイドル」という狭苦しく不自由な檻を抜けだし
広大な大地を自由に駆ける野生の獣に 美しいヒョウになればいい
あなたは荒野に生きる自由と 過酷とを手に入れる その過酷に
あなたは立ち向かわねばならない
あなたは立ち向かうことができる
あなたは立ち向かう
数々の輝かしい奇跡の瞬間
あなたはモーニング娘。そのものであり
あなたこそモーニング娘。だった
あなたがアイドル失格ならば モーニング娘。も失格であっていい
しかし あなたがモーニング娘。の歴史に刻み込んだ数々の奇跡を
その功績を 歴史から抹消し
その記憶を 消去することは
誰にも許されない 誰にもできない
わたしたちは待ち続けなければならない
わたしたちは待ち続けることができる
わたしたちは待ち続ける
あなたが心から笑う日が ふたたび来ることを
腹の底から沸き起こる喜びと幸せに
大きく口を開けて
目を見開いて
鼻の穴を広げて
あなたは笑う
昨年7月23日にモーニング娘。とハロー!プロジェクトから卒業した紺野あさ美(20)が、ハロプロに復帰することが18日、分かった。芸能界から引退後、4月に入学した慶大環境情報学部で学生生活を送っていたが、フットサルチーム「ガッタス・ブリリャンチスH.P.」の一員として再加入。同チームはCD発売も予定している。メンバーの不祥事や産休、脱退に揺れるハロプロが即戦力を緊急補強した。
慶大生になった「こんこん」がハロプロに帰ってくる。紺野は受験に専念するため、昨年7月にモー娘とハロプロから卒業。芸能界から引退したが、復帰計画が水面下で急ピッチに進められた。ハロプロ在籍経験者72人のうち卒業者27人の中でハロプロに復帰するメンバーは初めてだ。
紺野は4月に慶大環境情報学部に入学した直後から「新生活に慣れたら戻ってきてくれないか」と、前所属事務所から復帰の打診を受けた。心は揺れた。フットサルが気になったのだという。「フットサルはしたいけど、大学で学び、成果を残して卒業することが最も成し遂げたいこと」と悩んだが「学業を優先させてもらうことを条件に」両立の決意を固めた。
紺野卒業後、ガッタスがゴレイロ(ゴールキーパー)不足に陥った事情が大きかった。04年のチーム発足以降、ゴレイロは辻希美(20)と紺野の2人が、ローテーションで担当した。紺野卒業後、孤軍奮闘した辻は5月に杉浦太陽(26)との結婚、妊娠が発覚。無期限休業が決まり、守りの要が不在となった。
後任ゴレイロには身長170センチの℃−ute梅田えりか(16)、同166センチのBerryz工房の須藤茉麻(まあさ=14)が起用されたが経験不足。即戦力の補強が急務となり、過去55試合中48試合に先発出場した紺野がクローズアップされた。
紺野の復帰に合わせて新生ガッタスのCDデビューも決定した。主将吉沢ひとみ、石川梨華、里田まい、是永美記にハロプロエッグ(予備軍)の5人と紺野を加えた10人でチーム名と同名の音楽ユニットを結成。8月22日に「鳴り始めた恋のBell」を発売する。紺野は、7月15日に名古屋国際会議場センチュリーホールで行われる「ハロ☆プロ夏祭り」の初日公演で約1年ぶりに姿を見せる。
もちろん、紺野の復帰はハロプロのイメージ回復も期待される。加護亜依の未成年喫煙問題以来、イメージに合わない騒動が続く。人気上昇中にもかかわらず、進学のため惜しまれながらハロプロを去り、目標を達した紺野の好印象は、何よりの即戦力かもしれない。
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サンスポ.comに以下の記事が
大学受験のため昨年7月にモーニング娘。を卒業し、芸能界を引退した紺野あさ美(20)が電撃復帰することが18日、発表された。ハロー!プロジェクトのフットサルチーム「ガッタス ブリリャンチスH.P.」が8月にCDデビューするのに合わせて、メンバーに復活。7月15日のハロプロ名古屋公演で1年ぶりにステージに立つ。紺野は「学業との両立で頑張ります」と張り切っている。
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昨年12月に慶応大学環境情報学部に合格し、4月から神奈川・藤沢キャンパスに通う女子大生、紺野が芸能界に電撃復帰することになった。
所属事務所によると、モー娘。を卒業する際、紺野から「大学に合格できたら、ガッタスでフットサルを続けさせてほしい」との強い申し入れがあったという。そこで、慶大に無事入学し、順調な学生生活を送る紺野と話し合いを重ね、復帰が決まった。
活動の場は彼女の申し入れ通り、フットサルチーム、ガッタスになったが、奇しくもガッタスがハロプロの新ユニットとしてCDデビューすることから、紺野の歌手復帰も決まった。復活ステージは、名古屋センチュリーホールで行われるハロプロ夏ツアーの初日公演になる。
紺野は「大学生活と両立できるか悩みましたが、両立して頑張っていこうと決意が固まりました。大学受験を応援してくれたみなさんにまた会えることを、とても楽しみにしています」とファンに発表した。ただ、しっかり学んで、卒業することを第一目標に掲げる紺野は「ガッタスと大学の予定が重なった時は、学業を優先させていただきたい」としている。
紺野が参加する音楽ユニットとしてのガッタスは、音楽プロデューサー、つんく♂(38)が21人の選手から紺野をはじめ、吉澤ひとみ(22)、石川梨華(22)ら9人を選抜。つんく♂が作詞作曲したノリのいいポップナンバー「鳴り始めた恋のBell」で8月22日にデビューする。
同曲は、シルク・ドュ・ソレイユが日本で上演中のスーパーサーカス「ドラリオン」のイメージソングに決定。7月21日からフジテレビ系のテレビCMでオンエアされる。また、ガッタスも、「ドラリオン」のスペシャルサポーターに就任する。
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La deconstruction des idoles ──アイドルの脱紺築 apres le 1er juin 20に書こうかな