(旧)娘。魂の唯物論的な擁護のために

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「アイドルについて語るということ」(2007-07-18 - 七里の鼻の小皺)についての覚書
2007-07-18 - 七里の鼻の小皺



 七里氏の、このエントリに関する疑義を、備忘録として取りまとめておく。
 現在でも、「学会(笑)」界隈などで参照されることの多いエントリであるから、(本来なら敢えてそうする必要はないかもしれない(理由は後述)のだけれど)、疑義をまとめることにも多少の意義はあると考える。
 (以下引用文はすべて同エントリから)


現在のわれわれの問題は、辻希美の結婚が、はっきりとした出口として機能しないということにある。

 これが何故問題かといえば、「アイドルは恋愛してはいけない、ましてや結婚してはいけない」「結婚するならアイドルを辞めるべき」という主張が当然の前提とされているからであろう。


アイドルの結婚は、かつて物語の出口であった。

 「結婚したらアイドルの物語はそこで終了するのが本来の姿」という訳だろう。


われわれが、つんく♂を辛うじて信じるのは、彼がこのアイドルという物語を語り直そうと、すくなくとも当初は、愚直に願っていたからである。

 だが「われわれ」とは誰なのか。少なくともそれは私のようなファンを排除して成立する「われわれ」であるように思われる。そして、つんくが「アイドルという物語を語り直そうと」「愚直に願っていた」というのは、事実なのだろうか。(わたしには当時のことを実証的に証明する力はないので分からない)
 「アイドルと見られるのは結果論、モーニング娘。の本業はあくまでも歌手」と主張し続けるつんくを僕は知っている。彼自身が「イロモノ」視されつつ、したたかに「アイドル的存在」として生き抜いてきたことを考えると、彼が、処女性に担保されるような守旧的な「アイドルという物語」をモーニング娘。によって語りなおそうとしていた、という説は、にわかには信じがたい。
 つんく自身、『ASAYAN』という番組の中で「モーニング娘。をプロデュースする」という役割を与えられつつ、自身も「新人プロデューサーとしてプロデュースされる」立場であったし、番組を成立させるための駒だという自覚もあったはず。番組演出的に「悪役を演じる」ことにも自覚的だったはず。当然、そこで産み出されようとしている「アイドル」なるものについても批判的な視点(それが「テレビのネタ、壮大なヤラセ」であることをも含めて)があったのではないだろうか。


『ASAYAN』によって額縁がつくられてみると、なるほど、すべてが再び可能であるようにみえた。既存の物語を信じるのではなく、その額縁のなかで、あらためてアイドルの回復に向けて言説を組織していくことができるならば、それをいつか、われわれの物語と呼べる日がくるのかもしれない。われわれは、物語を信じたのではなく、物語の再話の可能性を信じた。

 「アイドルの回復」とはアイドルを「われわれの物語と呼べる日がくる」ということ。七里氏は「われわれは、物語を信じたのではなく」と書いているが、物語への信仰が完全に捨て去られていたのなら「物語の再話の可能性を信じ」ることもまた不可能ではないだろうか。「われわれ」の中で「物語」は生き延びている。アイドル神話の脱神話化は終了していない。そしておそらく、旧来のアイドル神話の回復を夢見る者こそが氏の言う「われわれ」なのだろう。


この数ヶ月で明らかになったことは、われわれが、この物語にどんな出口も想定していなかったということである。

 『ASAYAN』という番組はそもそも、制作する当事者にも、もちろんそのなかで「踊らされている」出演者たちにも、まったく先の見えない冒険、最初から大団円的な「出口」を想定していなかったのでは。(モーニング娘。自体が「紅白に出て終わり」、あるいは「三年持てば御の字」という弱気な将来予測はあったにせよ)
 つまりモーニング娘。にはそもそも「出口」など用意されていないのでは。それはモーニング娘。を作る側にとっては、決して「この数ヶ月で明らかになったこと」ではないだろう。物語には結末(出口)が必要なのだとすれば、モーニング娘。は反-物語であろう。


モーニング娘。は、インターネットを物語の基盤とした、はじめてのアイドル

 ほんとうだろうか。「基盤」はあくまでも、テレビという既存のメディア(及び雑誌・書籍などの既存の出版メディア)への露出にあり、ネットでのファンの盛り上がりは、基本的に既存メディア上における動向への反応なのではないだろうか。
 以前に、古参らしきファンのかたから「ネット人気がモーニング娘。を支えている」という内容のメールをいただいたことがある。ネットの盛り上がりが途絶えればモーニング娘。(やハロプロ)はダメになってしまう、という書き方だったが、わたしは反論した。モーニング娘。が絶大な人気を誇っているからこそネットが盛り上がるのであって、因果関係が逆転しているのでは、と。この考えは今でも変わらない。
 近年では、リョーカクこと両角誠氏のように、ネット上のファンにちょっかいをかけてくるテレビ番組製作者もいるけれど、例外的存在だろう。メディアの製作者は、ファンサイト、ブログの類いなどほとんど見ないし気にかけていない、という証言をいくつも目にしたし、それが現在でも実情であろうと考える。
 (ハロモニ@のSNS王国におけるファンの「意見」が、どれほど番組制作に反映したのか、わたしにはよくわからない。)


モーニング娘。が、もっとも興味深いアイドルでありえたのは、それがもっとも多くの言説を引き起こしたアイドルだからであり、そしてその言説が、強く物語の結末を望んでいたからである。

 ここにも論理の転倒があるのではないか。「それがもっとも多くの言説を引き起こした」のは、まさに、モーニング娘。が事実「もっとも興味深いアイドルで」あったことの証であり、因果関係が転倒していると思える。


「モーニング娘。」というグループ名の表記がすでに、閉じた物語への欲望を、句点によって体現していたことに注意しよう。

 これは、そう解釈することも可能ではあるが、脳内妄想にすぎないとも言える。事実としては「。」はタカハタ秀太氏のテロップ編集上の芸風であり、それが、グループ名に採用されたのは、番組MCのその場の思い付きである、というのが、番組の公式見解。この見解が事実にせよ、周到に演出されたものにせよ、それが表現するのは「MCの思いつきで「。」が付いたり付かなかったりしてもいいような軽い存在=企画モノ」という醒めた視線ではないだろうか。それはむしろ、「物語」への批判として機能するものであるとも言えそうだ。


今日もある人が、矢口を信じると主張する。最初は控えめに、しかしやがて、信じる気持ちを掻き集めるようにして。「(狼)」板の住人たちは、それは状況証拠からして、可能性の少ない身振りだといって、糾弾してくるかもしれない。しかし彼は、あの手この手で、矢口を信じる方法を紡いでいくだろう。

 この「信じる」とは、一体何を信じるのだろうか。「処女性」?「性交をしていない」という可能性?
 矢口真里本人が、最近、「恋愛を続けながらアイドルでいることは難しいと言われて、だったら芸能界を辞めてもいいです、と言った」こと「恋愛を終わらせるのは違うと思ってモーニング娘。を脱退した」ことを証言している(グータンヌーボ)。
 だが、問題は、そういう事実関係にあるのではなく、何故、ファンでありつづけるためには「信じる」必要があるのか、という問題だと思われる。(信仰そのものに内在するイデオロギー性の問題)


現実とは、したがって象徴的には、アイドルが排泄をしない極小の可能性に賭けるなけなしの勇気と、アイドルも排泄をすると考えることを自分に許す諦めとが、激しく衝突するときに開かれる間隙以外のものではない。

 その「間隙」を「現実」と定義する時点で、このエントリが、悪い冗談か、脳内妄想の一種でしかないことが明らかになるように思われる。エントリ全体が「冗談」なのだとしたら、それに、真面目に対応する者は馬鹿を見ることになる。(ネタにマジレスされてもw という)
 しかし、これが、仮に本気で書かれたエントリだとするなら……アイドルが排泄しないという可能性が「極小」であっても存在し、それを信じることが「勇気」だとされている時点で、これは電波系の言説だと思わざるを得ない。そういう「勇気」を持つことが、氏の言う「われわれ」であり「ヲタ」であることの条件なのだろうか。
 「アイドルも排泄をすると考えることを自分に許す諦め」、なぜ、それは「諦め」なのだろうか。それこそ、現実を直視する勇気を持たないことの告白であり、心地よい閉鎖的な「アイドルの物語」という繭の中で永遠に夢を見ていたい、夢から覚めたくないという願望、その願望を正当化するために「現実」を捻じ曲げようとするイデオロギー性の現われなのではないか。



いまモーニング娘。においてもっとも排泄をしないのは、むしろ道重さゆみだから

 そうだろうか。「実は黒い」という側面を強調し、「さゆみは人の豚ですけどね」と言い放つ、圧倒的に革命的な存在は、わたしにはむしろ、「アイドルだってオナラはしますよ」と『うたばん』で正直に申告した矢口真里の「ぶっちゃけ」精神を正しく継承し、より徹底しているように思える。(アイドルを演じることに自覚的な道重さゆみの批判的アイドル性については、これで語りつくせるものではもちろんないけれど)


(実際、「肛門は無いがウンコはする」などという議論は、言語のうえでありえるというだけの、悪しき衒学趣味に違いない)

 それはたしかにペダンティックだとも言えるけれども、そもそも人が排泄をするか否かを議論することが電波系。(ネタでないとしたら、という限定をつけるけれど)

アイドルという「不可能な恋愛」の物語を、あらためて立ち上げてしまったわれわれは、一体どのような結末を自らに与えることができるのか。言説を積み上げているだけでは、この恋愛は終わらない。そして、われわれは、この言説を膨らませることしかしてこなかった。いったい、すべてが、はじめからやらなければよかったことなのか? すべてが、いつか過ちに気づくための、わざとらしい迂回路だったと言うのか?

 「われわれ」以外のモーニング娘。ファンの中には、最初から、それが「わざとらしい迂回路」であることに自覚的、もとい、そのようは迂回はしなかった人が大勢いると思います。


出口のない物語を紡がせてしまうことは、この「不可能な恋愛」の罪である。

 この表現には、条件付で賛同できる。その「罪」は、断じてアイドルの罪ではない。アイドルに「アイドルの物語」を押し付けた者の罪、あるいは物語そのものの「罪」であろう。そこに物語批判の入り口が口を開けて「われわれ」の入場を待っているのだが。

「現実」と呼ばれているものに抗して、信じる気持ちを組織するために戦ってきた、その努力の意味自体は否定されない。

 そうだろうか。「努力」自体の方向性が根本的に間違っているなら、それを自己批判するべきなのではないかと、わたしには思える。


七夕の前日の、このような発言がぼくには心強い。

770 :名無し募集中。。。:2007/07/06(金) 20:17:35.82 0

ちょっとまて妊娠したとは書いてあるけどエッチしたとは書いてない

まだ大丈夫だ

 「心強い」、、、、。まるで、処女懐胎の神話を鵜呑みにするような話であるが、それを、


信じる気持ちを延命させようとする意志だけが、理性を聖性に乗り入れさせる。

 と持ち上げるのに違和感を感じずにはいられない。(わたしが、あらゆる宗教の欺瞞性を指摘するアドルノの徒だからであろうか)


理性を、そしてときには人生をさえ食い破って、吹き出してくる信じ易さ。つまり、人間の偉大さよ。

 「信じ易さ」は「偉大さ」なのだろうか。偉大だと持ち上げられれば、高価な壷を売りつける霊感商法や、安手の新興宗教や、オーラの泉なんかにも手もなく騙されてしまいそうで、他人事ながら心配になる。


アイドルの物語は、性と恋愛という謎に、謎としての豊かさを備給しつづける。したがって、アイドルにとっての心の仕事は、その物語を読ませるよう誘いつつ、その結末を隠蔽しつづけるという点にある。それは、「物語」めいた演技と「現実的」な暴露の演技との、あるいは、演じられる客体と演じる主体との、無限の弁証法に違いない。

 この一文は理解できる。だが、七里氏のエントリは、「現実的」であることを否定し、一方的に「物語」を持ち上げているように、わたしには思える。現実を直視しなければ、その弁証法は機能せず、いつまでたっても「アイドルの物語」は止揚されず、保守反動的な概念に留まるほかないのではなかろうか。


われわれの愛に値するのは、役に立たないものばかりだ。そして、アイドルへの愛は、その役に立たないものの重要性を、卑小な生活のなかでなお守っていくための、里程標としての役割を果たしてくれているのだ。

 この一文は理解できる。
 そして、「アイドルの物語」は、擬似恋愛やヲタの自慰行為の安寧秩序を保証するものとして、たいへんに「役に立」つわけだが。
 「役に立たないものばかり」が「われわれの愛に値する」ならば、ぼくたちは、「アイドルの物語」を逸脱し、それを批判するような「アイドル」こそを愛するべきであろうに。


 以上、とりとめなく疑義を並べてみた。
 このエントリを再読してみて、総論的に言えることは、このエントリからは「他者の痛みに対する想像力」を読み取ることができないということだ。ここには、ヲタの論理ばかりがある。「われわれ」の「われわれ」による「われわれ」のための「アイドルの物語」が称揚されるばかりだ。そこにアイドルをやっている現実の少女達への、少女たちの痛みへの共感はあるだろうか。普通に食欲と性欲にさいなまれつつ、食べ、排泄し、ダイエットし、オシャレし、恋愛もする少女たちの「現実」が抱える困難さに対する共感はあるだろうか。
 これだけの立派な文章表現ができる七里氏が、そのような想像力を持ち合わせていないとは思えないのだが、しかし、このエントリを読む限り、氏は、むしろ現実に直面することをあくまでも回避し、現実を「卑小」と見なし、「物語」へと逃げ込むことを「勇気」であると語るばかりだ。そこにある種のイデオロギーの働きを見ることは自然だし、そのイデオロギーと、いわゆる「ヲタの倫理」との密やかな共犯関係を疑ってみることも無益ではないだろう。

 以上の疑義とは離れるが、やぐっつぁんが、みきちゃんがモーニング娘。を「脱退」するにあたって、ののやかおりが出産を決断するにあたって、どれほど悩み、巨大な力と戦いながら、それを選択したか、ぼくたちは、容易に想像することができる。
 その「巨大な力」において、普段はアイドルになど鼻も引っ掛けない一般メディアや世間と、保守的な「アイドルの物語」の護持を切望する一部ヲタとの利害が一致し、アイドルのイメージを損なうアイドル、アイドルの掟やら約束やらを破ったアイドルへの包囲網を形成する連合軍となる。
 この連合軍の力は、「清純」を称揚する保守的性意識を守りたい世間と、「アイドルの職業倫理」という大義名分に支えられた文化産業の商業的合理性と、「アイドルに裏切られたくない」という身勝手なヲタの利害とが一致して、ほぼ鉄壁である。この連合軍は、これからも、「アイドルの規範」を逸脱し、「アイドルの物語」を綻びさせかねない危険な存在を次々と排除し続けるであろう。ぼくの愛しい推しメンたちも、いつこの連合軍による酷薄な一斉掃射を受けて、その地位を追われるか分からない。
 これら連合軍の利益の総体と、現実に生きて心に血を流して苦しんでいるアイドルたち、推しメンたちの人生とを、秤にかけるまでもなく、無条件で後者を擁護する者こそ、ぼくは「ファン」だと思いたい。
| ヲタ界隈 | 14:16 | comments(0) | trackbacks(0)
倫理的責務としてのTK氏批判
 さて、斯界の大御所をもって自任するらしきTK氏が、加護亜依の件に引き続き、またしても捨て置けぬことを述べている。
 そこで、前回同様に、まったく気は進まないが、この「モーヲタテキスト界隈」で意見を述べる者の倫理的な責務を果たすため、純粋な応答責任の負担として、一言問題点を指摘しておく。

 以下、引用はすべて、「モー神通信」(2007.6.12更新分)からである。


アイドルは「恋愛」という思春期における重大なファクターを犠牲にして仕事に専念し、ファンはそれを応援する−−−言うまでもなくそれは理想的なアイドルとファンの契約関係であり、相互依存関係です。この私であっても、「そうあれかし」と願う気持ちはあります。


 アイドルは自分のプライベートでの恋愛を犠牲にする。そのようなアイドルをファンが応援する。それが理想的なアイドルとファンの契約関係だという。契約!
 契約とは、両当事者が、法律効果の発生を求めて、互いに意思表示し、その意思表示が合致することによって成立し、成立すれば、互いに権利を有し義務を負うという、法的な拘束力を持つ法律行為である。
 このような契約関係があるとすれば、ファンは応援するという債務を負い、アイドルはパフォーマンスを提供するだけではなく、恋愛を犠牲にする債務(法的な義務)を負うというのだ。TK氏はそれを「理想的」な関係として「願う」というのだ。
 噴飯物である。
 相手方に恋愛しないことを求める権利など、公序良俗違反として無効となる(民法90条)ことは、当然である。
 仮にそのような契約が成立したとして、アイドル側が債務不履行した場合、ファン側は、裁判所に「処女回復請求権」を行使してアイドルの恋愛の差し止めや撤回を求めることが出来るか。出来る訳がない。そのような契約には訴求力は認められない。
 従って、そのような契約が仮に成り立つとしても、それは、当事者間でのみ効力を有する(訴求力のない)自然債務のみを負わせるものだと考えられる。
 だとしても、アイドルの恋愛が発覚したときに、事務所やアイドル本人に対して、恋愛差し止め請求など出来ようはずがないのは同様である。
 では、せめて、恋愛の発覚という債務不履行によって損害が生じたと主張し、損害賠償を求めることが出来るか。それすら出来ようはずもない。
 結局、この「契約」というのは、ファンの側が「裏切られた」と感じてアイドルの応援をやめる、というそのときに、自己を正当化する体のいい言い訳として機能するより他に意味のないものである。

 もちろん、事実としては、そのような契約など、どこにも存在しない。
 もちろん、「モーニング娘。としての約束」なども、どこにもなかったはずだし、少なくとも私個人は、そんな約束をした覚えはない。
 (この法律的比喩を続けるならば、そのような存在しなかった「モーニング娘。としての約束」を持ち出し、「それを破ったからケジメとして脱退します」、といって一方的に「契約」を解除するほうが、余程不当だと私は思う)

 さて、そのような「契約」の存在を「願う」TK氏ではあるが、しかし、氏も、


だからと言って彼女たちに恋愛を自重しろとは言えません。


 と述べている。その理由は、


「果たして今のモーニング娘。がその犠牲に値するか」あるいは「今のモーニング娘。がそれを強制できる環境か」


 という点にあるという。予想通りというか、ある種の「理屈」が通っている点が、面白いのだが。
 つまり、氏は、モーニング娘。が全盛期のように売れていて、「ハロプロ構造改革」のような「理不尽」な目に遭うこともなく、メンバーが生き生きと仕事が出来る環境が維持されていさえすれば、依然として、「彼女たちに恋愛を自重しろ」と言いつづける気でいるのである。

 そこには、現実を生きる少女の現実の幸福を犠牲にして成立するアイドルという制度そのものに対する問題意識は、微塵もないと言うべきだろう。

 近時、そのような「アイドルの前近代的制度性」が、大衆、とくに若い女性の共感や支持を得られなくなったことが理由で、アイドルシーンは衰退した、という指摘がなされている。わたしもその解釈を支持する。
 その「衰退」(アイドル冬の時代)の後に、あえて「アイドル」を自らの人生として引き受け生き抜く姿を見せたモーニング娘。は「アイドル」であると同時に「『アイドル』を批評する存在」でもあったはずだ。
 しかし、そんなモーニング娘。であるにも関わらず、ファンの中には、時代錯誤としか思えない旧態依然たる「アイドル処女幻想」に依存する者が多数いる。むしろ、そういうファンに現在もなお「アイドル」が支えられている、という動かしがたい現実がある。あまりの虚脱感と無力感に、深い溜め息が出るばかりだ。
 情けないとしかいいようがない。

 無論、歴史上、偉業と称されるような英雄的な仕事を成し遂げた人は、多かれ少なかれ、仕事のために私生活を犠牲にしているものだ。
 しかし、それは自ら望んでそうするべきものであって、事務所に命令されて従うといった性質の話ではない。
 それに「アイドル」というタレント活動は、そのような、偉業と称されるような英雄的な仕事とまでは通常言えないであろう。
 (わたしがこう言ったからといって、「モーニング娘。は信じられないほど素晴らしい存在だ」と私自身が考えていることと、いささかも矛盾するわけではない。その素晴らしさは「処女性の保持」とは無縁に成立しうるものである。言い換えれば、モーニング娘。の成し遂げた偉業は「処女性の保持」とは何の関係もない)

 しかも、あろうことか、氏は、

私は勝手ながら石川さんにだけはそれを−−−私生活を犠牲にすることを−−−望んでいたいのです。どんな時でもひたむきであり続けた彼女までがその価値を放棄したなら、それはおそらく名実共にその価値がこの世から失われたことを証明してしまうからです。


 として、尚も、石川梨華(と新垣里沙)には、「処女性の保持」を望むというのである。
 この二人だけは、おそらく「モーニング娘。は処女性を保ってほしい」(テレビ東京菅谷社長)というファンの身勝手な要望にも応え続けてくれるであろう、と期待されているのである。
 「処女性」を期待されなかった高橋愛様をはじめとするモーニング娘。の皆様、まことにご愁傷様でした。
 という(シャレにならない)冗談はさておき。
 その前段にも大きな問題点がある。

 
石川さんだけが、どのような過酷な状況の中でも、常に全力で仕事に取り組んできました。


 石川さんだけが! では、矢口真里は、加護亜依は、辻希美は、藤本美貴は、「常に全力で仕事に取り組んで」は来なかった、とでも言うつもりなのか。
 そう決め付けることほど、彼女らにとって酷いことはないだろう。

 話を戻して、石川梨華が保っているとされる「価値」とは何か。
 曖昧な文面からは明らかではないが、それが「アイドルの処女性」ないし「アイドルの処女性に基礎付けられる価値」を指すであろうことは、読み取れる。
 これは、男の身勝手な欲望の肯定そのものに他ならない。
 おそらくフェミニズム的立場からは、そのような男の横暴を打破するために、石川梨華と新垣里沙こそ率先してそのような価値を放棄すべし、という主張もありうるところだろう。わたし自身はフェミニズム言説に与するわけではないが。

 しかし、少なくとも私は、「処女性を保持すると期待できるか否か」という性差別的、女性蔑視的基準によって、石川梨華、新垣里沙と、他のメンバーを区別するようなマネだけは、自らに固く禁じたい。

 ところが、もちろん氏は、違う立場を鮮明にする。

新垣さんも同様です。どんな時でもモーニング娘。への愛を失わなかった彼女が、グループに対し、私生活を犠牲にするほどの価値を見出せなくなった時、かつて私をあれほど夢中にさせた最期の幻想がこの世から消えうせてしまうのです。


 「最期の幻想」(原文ママ)とは何か?
 それは、文面全体から明らかなように「アイドル=処女幻想」、もう少し穏健に言えば「アイドル=清純幻想」である。
 氏を夢中にさせたというものが、かかる安っぽい幻想にすぎないとすれば、いささか驚くべきことではある。
 当初から、非処女であると考えるのが自然であった中澤裕子さんは、氏にとってアイドル失格だった、眼中になかった、ということなのか。
 また、同じ冗談を繰り返すのは気が引けるが、高橋愛以下の、他のメンバーは、氏から期待されていないらしい。それに、久住さんや光井さんが、わが身を犠牲にして「幻想」の延命を図ったとしても、それは氏の救いにはならないらしい。なんとも失礼な話であるように感じるのは私だけであろうか。

 しかも、全文の締めの言葉もふるっている。

ただ、それでも私は、その時が来ても、彼女たちを声高に批難するのでも恨むのでもなく、せめて「今までありがとう」と言えるファンでありたいと思います。


 この「今までありがとう」という挨拶は何を意味するか?

 A:「今まで処女性を保ってくれてありがとう。これからは非処女であることを前提に、今までどおり応援し続けます」
 B:「今まで処女性を保ってくれてありがとう。非処女であることが明らかになったあなたがたに用はありません。さようなら」
 極めて好意的に読めば、Aである可能性もないとはいえない。(あるいはA、Bの中間である可能性も)
 しかし、文面全体が「アイドルの処女性」という反動的な価値を、何の疑いもなく称揚するものである以上、Bであると読むのが自然であろう。
 Aという態度を取りうる、と言うのであれば、そもそも、ここまでして「アイドルの処女性の保持」を願う必要もないからだ。

 従って、この最後の部分は、「わたしは処女性を放棄したアイドルは応援し続けられない」さらに一般的に「処女性を放棄したアイドルはファンから見捨てられる」という言外のメッセージを読者に伝える言葉として機能する
 そして、そのことによって、「アイドルは処女性を保持せよ」という反動的な要請を支持し、少女の現実の幸福を犠牲にして成立するアイドルという制度をさらに強化して延命させることに加担するのである。

 私自身は、藤本美貴がフライデーされても、モーニング娘。でい続けてほしいと切実に願い続けている。新垣里沙や亀井絵里が同じ目に遭ったとしても、同様に彼女らを応援し続けるし、モーニング娘。を辞めるな、と願うだろう。
 妹重に、姉重には彼氏がいるらしいとバクロされても、裏切られたといって姉重フォルダを削除したりしない。ん?

 フライデーごときでガタガタ騒ぐな、とばかりに、堂々とシラを切りつづけ、モーニング娘。でいつづけ、そうして「アイドルという制度」に揺さぶりをかけてほしいと夢想する。
 しかし、経済原則に従って動く現実社会にあって、その可能性が限りなく無に近いこともまた自覚してはいる。

 処女は金を生み、非処女は生まない。

 その冷酷な経済的事実が、乗越え不能な巨大な壁となり、眼前に屹立するばかりである。
| ヲタ界隈 | 10:18 | comments(0) | trackbacks(0)
ホンネとタテマエ
 A……「アイドルは恋愛しないでほしい」「処女性というイメージを壊さないでほしい」
 これは、ある種のヲタのホンネ。
 それは「アイドルに僕以外の恋人がいたらイヤだ」という気持ち。
 現実の恋愛では、恋してしまった相手に別の好きな人がいることは、当然ありうるあたりまえの話だが、その場合でも「僕のことを振り向いてほしい」と思うのは理解できるし、その同じ感情を「アイドル」という存在に向けても、別に構わない。
 このホンネをもちつつ、
 B……「それでも、イメージを壊しても、モーニング娘。辞めさせるのは行きすぎ」
 ということをいう人がいる(そうだ)。
 その一方で、Aでありつつ、Bをタテマエとして言っている人もいるはずだ。
 なぜ、タテマエを言うと考えられるのか。
 それは、「イメージを損なうようなアイドルなんて辞めてしまえばいいんだ」というホンネを言えば、自分が悪者になるし、どう考えても分が悪いことが実は分かっているからだ。
 人は、多くの場合、自分に都合の悪いホンネは、言わないものだ。
 だからこそ、「狼」のような、匿名で言いたい放題言えるメディアではホンネの嵐が吹き荒れても、基本的にハンドルを明示し、発言主体を晒して発言する、サイトやブログという媒体の上では、タテマエばかりが目に付くという結果になる。
 そういう事情が、「狼」とそれ以外の媒体の「温度差」として現れていると考えるのが、極めて自然だ。
 むろんBをホンネで主張しているという人の主張を否定したり、嘘だと言ったりするつもりは、さらさらない。

 Aというホンネが「ファンのわがまま」にすぎないことを自覚している人は、客観性を装って言い換え表現を使用する:
 「恋愛禁止はアイドルの職業倫理(義務)」
 「モーニング娘。の掟」
 「モーニング娘。としての約束」
 「子供たちの夢」
 「未成年者がいるグループのリーダーとして相応しい行動を」
 「処女性を保ってほしい」(これは露骨だが)

 また、C「辞めてしまえ」という、自分が悪者になりかねない危険なホンネ表現を回避し、自分はさも客観的に論評していますよ、という態度を取るための言い換えとして使われる例:
 「残念だけどルールを破ったからしかたないよね」
 「処分は妥当」
 「ケジメ」
 「本人が自発的に辞めたのだから意思を尊重したい」
 「フジモトはもともとソロ志向が強い」

 なお、上記表現は「本心から言われる」という場合(ないしそのように主張される場合)もあるので、必ずしもホンネを隠すためではない(ないしそのように主張される)ことに注意を要する。
 また、しばしば人は、ホンネを隠してタテマエを言っているうちに、そのタテマエが自分のホンネであったかのように錯覚してしまうことも多いので、要注意である。

 日本という社会は、そして、モーヲタ界隈という空間は、かかるタテマエに蔽い尽くされているように、私には見える。

 ホンネとタテマエの話とは、ずれてしまうが、非ヲタの方が、一般的な観点から、Aというファンの「ホンネ」について論評されているので、ご紹介したい。


 しかし男と付き合っただけで脱退騒動に発展するとは、なんでしょうか、処女性を重んじる宗教の巫女集団みたいですね。アイドルすなわち偶像を崇めるという意味では宗教的なものと共通項が出てくるのは自然な流れなのでしょうか。とりあえず今回、リーダーであったところの藤本氏が男と付き合ったことを謝罪したわけですが、ある意味ではこれがモーニング娘。としての公式見解、男と付き合うのは追放処分に値する禁忌であると認めているような印象も受けます。

 まぁ、ファンがアイドルにどういうものを期待するのか、その辺は人それぞれなのですが、ちょっと論理を飛躍させれば危ういところも感じます。家父長制、男根主義の貞操観念、あるいはイスラム原理主義の女性観と言いますか、女性を他の男性から隔離したところに囲っておきたいという欲望を感じないでもありません。芸能人に舞台の上で清純派を演じることを期待するのは罪のないことですが、舞台から離れたプライベートには、あまり過度な思いこみを持つべきではないでしょう。

 しかるに、ある意味で日本は公私混同の国、「公」と「私」、職場と私生活の区切りが無く、混同されがちな文化圏です。代表的な例としては国技であるところの相撲取りが挙げられるでしょうか、横綱には土俵を降りても横綱であることが求められる世界、つまり力士の職場である土俵の上と「私」の場である土俵の外、この両方で横綱であることが求められるわけです。リングの上では役割を演じきり、リングの外では好きなように生きる、ピッチの中ではその役割に責任を持つが、ピッチの外では責任を負わされる義務はない、そんな西洋スポーツ的な価値観に対して、舞台の上でも外でも、生活の全ての面で期待される役割を演じることが求められるのが日本的な労働風景なのかもしれません。

" target="_blank">非国民通信 プライベートのない世界から引用、なお強調は痛井ッ亭。による


 目の曇っていない一般人の方は、きわめてまっとうな感覚で、「アイドル」という存在を見ている。
 ま、ヲタ側からは、「ヲタじゃないから言えることだ」という反応が予想されるわけだが。

 一般的に、愛する対象としての「女性」に対して処女性を求める心性というものをどう評価すべきか、興味深い主題ではある。

 しかし、「夜遊びしてても」「彼氏がいても」「非処女でも」全然構わないから、美貴ちゃんモーニング娘。でい続けてくれ!!!!
 と、心底叫びたいわたしにとっては、自分の問題ではないことも、また、たしかな話ではある。
| ヲタ界隈 | 11:56 | comments(0) | trackbacks(0)
正当なエゴと、不当なエゴ
カンパチ!「エゴイズム対立」


この問題は、アイドルのエゴとヲタのエゴの衝突だ。お互いのダークサイドの対立だ。


(中略)

『アイドルのエゴか、ヲタのエゴか。』


 ここで、つばめ♂氏は、二つの「エゴ」を、まるで等価であるかのように扱っている。
 ここには大きなまやかしが隠れている。
 何故なら「二つのエゴ」は本来、等価ではないからだ。

 Aさん(職業:タレント。世間からは「アイドル」と呼ばれる)のエゴは、好きな人が出来たらデートしたい、お付き合いしたいというエゴだ。これは、人間の基本的な自由であり、他人が禁止できる筋合いのものではない。憲法で保障されているいない以前の問題として、自然人には、自然権がある。

 一方、Bさん(Aのファン。アイドルヲタク)のエゴは、「アイドルは恋愛してはいけない」というエゴ。これは、他人の自由への不当な束縛であり、なんら正当性を有さない。
 Bさんは、本来Aさんの自由を奪うなんの権利も資格もないのに、まさにエゴイスティックにそのエゴを主張しているにすぎない。

 二つのエゴが、等価でないことはあまりにも明らかだ。
 問題は、二つのエゴの比率や配分といった程度問題ではないのだ。

 しかし、現実には、「アイドル」とよばれるタレントの活動を経済的に支えているのが無数のB君である、という、トホホな事実がある。そこで、「アイドルを商品として売る側」は、顧客のワガママに配慮しなければならない、ということになる。これは、純粋に商売の問題である。

 B君が世論を形成し「アイドルは処女性を保て!」と主張すれば、「アイドルを商品として売る側」は、それに配慮して、ブランドイメージを守るために、「処女性を保たなかったタレント」に処分を下す。
 「お客様は神様です」という商売の精神に則って、B君の不当なエゴが承認され、タレントAさんの正当なエゴは否定される。(ついでに、タレントに処女性など求めない、非処女であってもそのAさんを応援し続けたいというファンC君のエゴも否定されてしまう)

 これは、数の論理による暴力そのものだ。
 しかし、タレント活動も商売である以上、避けられない運命なのかもしれない。
 B君の不当なエゴを考え改めさせることが出来たら、問題は解決できるのだが、それは現実には不可能に近い。

 悲しいかな。

 ともあれ、「二つのエゴ」が、どちらも「エゴ」という同じ名で呼びうる、という事実のために等価であると考えるような議論には、危険なまやかしがある。
 そのことを確認しよう。

 もし、すべて「エゴ」と呼ばれるものが、等価であるならば、
 1、「平穏無事に生涯を全うしたい」というAさんのエゴと、
 2、「自分の快楽のためにAさんを殺したい」という猟奇殺人者B君のエゴも、等価だと言う議論が成立しうる。
 それが不当であることはいうまでもない。
 「エゴ」の内容、その正当性/不当性を検討する必要があるのは、火を見るよりも明らかな話である。




| ヲタ界隈 | 16:59 | comments(2) | trackbacks(0)
onoyaさんのブログに投稿させていただいたコメントです。


http://d.hatena.ne.jp/onoya/


>onoya様
「ママドル」という領域もサブジャンルとしてたしかにありますが。
僕自身は、アイドルという概念を広く捉えております。
簡単に素描すれば、
〃歃冑集修修里發痢表現された結果を受容される存在が「アーティスト」
芸術表現をする主体そのものの魅力や個性が、主に受容される存在が「アイドル」
と考えています。,鉢△楼貎佑良集充圓涼罎芭称します。
というか、受容する側の受容のしかたの問題だと考えています。
,茲蠅皚△暴電世鮹屬い読集充圓鮗容する場合、その対象を「アイドル」として捉えている、と考えています。
そういう押さえでいけば、例えば、「フジ子ヘミング」なんて人はアイドルとして受容されていると思いますし、「吉永小百合」も60歳を過ぎても、なおアイドルであろうと。
であれば、子供がいようが、老婆だろうが、人はアイドルとして受容されうる、と。
しかし、このアイドルの定義は、かなり広義なものです。onoyaさんの考えられている「アイドル」という対象は、もっと狭い範囲に限定されるのであろう、と理解しております。

倫理的なヲタでありたい、という価値観は、僕も共有しているつもりです。
ファンが、アイドルに迷惑を掛けたり、失脚の原因を作るのは、本当に止めてもらいたい。
ただ、アイドルの行為や、事務所の行動などに対しての批判は当然あっていいと思います。
もちろん批判の中にはクズのような批判も多いでしょう。玉石混交でしょう。
しかし、高橋源一郎が正当にも言ったように、「表現の自由」とは「クズである自由」なのだと思います。
だから、僕としては「クズのような内容の批判を書くならヲタをやめろ」とは言えないのです。
僕自身の書くものがクズである可能性が、とても高いですしね(笑)


>チャーリー様
学会にお声をかけていただき感謝します。
とても面白そうな活動ですね。
しかし、僕は家庭内隠れヲタなので、参加は難しいですし、
第一、発表に耐えるほどの成果が、未だ何一つあがっておりませぬ(涙)

変わる、というほどの固まった「ものの見方」もまだないような感じで。
ただ、可能な限りモーニング娘。について真摯に考え続けたいとは願っております。
| ヲタ界隈 | 22:43 | comments(0) | -
「SOMA」のオーナー石本靖幸氏を限定的に擁護し、併せて一部のヲタを批判する

 「SOMA」のオーナー石本靖幸氏との温泉一泊デートが、講談社『週間現代』で報じられた。記事の中には、加護亜依が再び喫煙している場面も目撃された、ということも記載されている。
 これがきっかけになり、加護亜依は、UFAとの契約を解除するに至った。
 これは、事実上の、芸能活動からの撤退を意味するだろう。プロデューサーつんくも、「芸能界復帰は無理としても、大きな意味で彼女のこれからを応援していきたい」とのコメントを出していた。復帰は無理としても、というつんく♂さんの発言は、事務所との契約解除以上に、私には重たく響く。 

 加護亜依の今回の行動は、これから「アイドル」として芸能界に復帰する準備を、所属事務所のバックアップの元で進めていた身として、あまりにも軽率であり、喫煙の違法性自体は軽微であるとはいえ、ファンとして到底擁護できるものではない。そのことは誰もが分かっている。

 そして同時に、その「喫煙一泊デート」のお相手となった、「SOMA」のオーナー石本靖幸氏に対しても、激しい非難と憎悪の声が、ファン界隈から聞こえてくる。
 私自身も、彼の行為を、積極的に肯定しようと言うわけではない。むしろ個人的には、その行動には嫌悪感を感じる。

 しかし、彼だけを悪者扱いするのは公平ではないように思われる。
 そこで、彼をその点に限定して擁護し、併せて一部ヲタに反省を促すのが、本論の目的・趣旨である。

 彼が、ファンからここまで批判される理由は、大きく2つだと考える。
 第一は、未成年者である加護亜依が横で喫煙しているのに、それを止めなかったことに対する責任の追及。
 しかし、「未成年者喫煙禁止法」の規定では、未成年者の喫煙を止める法的義務を負うのは、「親権ヲ行フ者」(法3条1項)または、「親権ヲ行フ者ニ代リテ未成年者ヲ監督スル者」(法3条2項)に限定されている。つまり、当該未成年者に対する保護監督責任を負う者に限られる。実際には「親」または「未成年後見人」がそれに当たろう。最大限拡張解釈すれば、所属事務所UFAもまた、未成年タレントを指導する「監督責任者」として法的責任を問われうる(法3条2項)。
 しかし、事実上の交際関係があるに過ぎない石本氏には、そのような法的責任は認められないはずだ。
 もっとも、大人としての道義的責任はある、と言えよう。しかし、その道義的責任は、世の中の、自分の子供の喫煙を放置している親たちに比べれば、遥かに軽度なものだと言える。また、道義的責任とは、自ら自覚する以外になく、他人が強制できる性質のものでもないだろう。

 彼が批判される第二の理由、そして実は、もっと本質的な理由は、彼が、アイドルと交際し、二人きりで温泉旅行し、それによって事実上、加護亜依のアイドルとしての将来を奪ったこと、であるだろう。
 これは、法的にはなんら問題を構成しない、自由恋愛の範疇の行動である。
 しかし事実問題としては、未成年のアイドルに、中年の彼氏がいることが発覚するのは命取りだ。
 それが彼に対するファンからの批判の理由だ。
 加護亜依からアイドルとしての将来を奪ったことに、ファンの怒りが向けられる。

 しかし、この第2の点については、彼を批判できないヲタが大勢存在するはずだ。
 あわよくばアイドルとリアルに知合い、付き合いたいと思って接近するヲタたちだ。
 彼らを「本人接触願望系ヲタ」呼ぼう。
 「本人接触願望系ヲタ」は、「本人から個人として認識され、つながりを持つことを目標とするヲタ」と定義できよう。

 「本人接触願望系ヲタ」は、ほぼ二種類に大別できる。
 1、あくまでも公的に許された範囲で接触を図る節度あるヲタ。これを「本人接触願望系ヲタ穏健派」と呼ぼう。穏健派は、握手会、ファンクラブイベント、新曲発表会などで、接触、会話を楽しみ、手紙やプレゼントを渡す。ラジオへ投稿することで、存在を知ってもらう。その活動の対象はあくまでも、「アイドルの公的な活動」に限定されている。

 2、それと対照的なのが、アイドルのプライベート(私的領域)にどこまでも食い込もうとするヲタ。「本人接触願望系ヲタ過激派」と呼ぼう。
 典型的な行動が「出待ち」である。
 地方公演終了後の電車を待ち伏せ、一緒に乗り込み、移動中も集団で付いて回る。ほとんど準ストーカー行為と評価しうる。そのことを誇らしげにブログに記述するヲタも大勢いる。
 あるいは、番組のロケ地情報を入手し、ロケ現場で待ち構えるヲタ。
 アイドルの近親者や学校の教師などに接近し、コネクションを確立して、そこから本人への接触を図る行為。そのことを誇らしげにmixiなどで仄めかし、自慢するヲタもいるようだ。
 これらは、アイドルのプライベートへの侵入行為である。
 わたしは、アイドルも職業であり、オンタイムとオフタイムがあると考える。そしてオフタイムにおけるプライバシーは一私人として、当然に保護されるべきであると考える。
 しかし、これらの、ヲタによるプライバシー侵害行為は、ある意味で、彼女らのオフタイムにまで「アイドル」であることを強要するものであり、プライベートな時間を奪うものである。
 これを、ファンとしての適切な距離感を欠いた行為であると考えるか、違法でないから構わないと考えるか、そこに、ファンとしての倫理が、懸かっている。
 「どれほどアイドルのプライベートに食い込んでも、アイドル本人が拒否していないなら問題はない」と考えるヲタ(本人接触願望系ヲタ過激派)は、その性質上、なんら石本氏と変らない。
 彼らに、石本氏を批判する資格も、権利も、微塵もないと言うべきだろう。(あるいは、恐ろしいことに、彼らは、「石本氏、よくそこまでやったな、うらやましい」と考えているのかもしれない!)

 そのような、「本人接触願望系ヲタ過激派」のグループに、石本氏は位置付けられるだろう。
 自らの財力や、芸能界とのコネを利用して、アイドルに接近し、交際にまで至ったヲタ。
 彼は、ある意味では「成功した(金星を獲得した)ヲタ」、一人の突出したアイドルヲタクとして位置付けうる、ということを確認しよう。
 石本氏と、あまた存在する「本人接触願望系ヲタ過激派」との違いは、単に、「実際にアイドルと付き合えたか、あるいはそこに至れなかったか」という結果の差があるにすぎない。

 モーニング娘。現メンバーの中にも、ヲタと直接的交流を持っていると雑誌でスクープされたメンバーがいる。
 その問題のヲタたちは、おそらく「本人は喜んでいる、嫌がっていない、自分は拒否されていない」と考えていることだろう。
 しかし、「アイドル」が「アイドル」である以上、ファンに対してあからさまな拒絶の意思表示をすることは難しい。人気商売であるがゆえに。誰それに冷たくされた、などと噂が立てばイメージが低下する。そういうアイドルというあり方自体に内在する弱みに、彼らは付け込んでいるのだという側面は否定できないだろう。

 話題を転じてみる。これは、ネット上で広く知られた噂であり、その起源は、おそらく「本人接触願望系ヲタ」が、その見聞したアイドルの発言をネットに流したことである。
 それは、亀井絵里の発言とされる『こっちから来たりして』である。移動の電車に乗り込んできたヲタを指して、本人が言ったと噂されている言葉である。
 移動中というプライベートな時間にまで、ヲタが無遠慮に侵入してくることに対する、明らかな拒絶的感情が、この発言からは読み取れる。
 ヘタレな亀が、そのような不躾なヲタにどれほど脅えたか、想像にあまりある。(うわ、あの人たち乗り込んで来たよ。困った人たちだよー。うわ、こっちから来たりして。いやだ、気持ち悪いよー(涙))
 これは、アイドルが、そのような、適切な距離感を欠いた無遠慮なヲタ、倫理性を欠いたヲタにホトホト迷惑している、ということの証左でもあろう。

 (この点への注:この時、実際に乗り込んできたファンが、たまたま偶然乗り合わせたにすぎないとしても、亀井絵里を批判することは断じて許されない。仮に、それが亀井絵里の勘違いだったとしても、その錯誤は、「乗り込んできたファン=どこまでもまといついてくる迷惑なファン」と短絡的に判断してしまうほどに、日頃から迷惑行為に悩まされ続けている、という事実の存在を示す証拠に他ならないからだ)

 話を戻そう。

 石本氏の行動自体は、加護亜依の将来を親身に考えているとは到底思えないという意味で、決して褒められたものではない。
 しかしながら、彼を批判する前に、自分の非倫理的な、行きすぎた振舞いをこそ反省すべきヲタが、モーニング娘。たちの周囲に、無数にいるはずだ。

 今現在、石本氏は、東京を離れ、マスコミの目を避け、目立たないように暮らしている(らしい)。おそらくは、狂信的加護亜依信者からの報復的行動や、マスコミによる、スキャンダルを求めるハイエナ的な取材攻勢を恐れての、避難行動であろうと推察される。
 それが事実だとしても、それは彼自身が、アイドルヲタクとして行きすぎた行動に及んだことの当然の結果とも言え、わたしとしては同情するつもりはない。
 だが、公平に考えて、すでに彼は、十分すぎるほどの事実上の社会的制裁(不利益)を受けている、とだけは言っておくべきであるように思われる。

 亀井絵里さんのための追記: 彼女は、現在では、かなりアイドルという境遇にも慣れて、現場や移動中に接近を試みるヲタを見かけても、(表面上は)余裕で手を振ったりしているらしい(あくまでも噂の域を出ない情報だが)。
 しかし、そのような一見フレンドリーな対応が、ヲタの勘違いを助長し、さらなる不規則行動を招き寄せること、そして、結果的に自分の首を絞める危険があることだけは、ぜひとも自覚してほしいと切に願う。
| ヲタ界隈 | 00:54 | comments(0) | -
引退タレントの近況記事はダメ 地裁「本人の同意必要」 という記事が
" target="_blank">引退タレントの近況記事はダメ 地裁「本人の同意必要」

 という地裁判決がでたようで。
 ま、当たり前といえば当たり前の妥当な判断です。


 週刊誌の「消えたあの人、大追跡」などの特集に無断で写真や近況を掲載され、プライバシーを侵害されたなどとして、元タレントの黒木香さんが「女性セブン」と「週刊ポスト」を発行する小学館などに2200万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が13日、東京地裁であった。滝沢泉裁判長は小学館側に170万円の支払いを命じた。

 滝沢裁判長は「元タレントであり、秘匿性がさほど強くない情報であっても、無断でのプライバシー公表は受忍の限度を超えている」と述べた。

 さらに、「写真の撮影や掲載の了承もなく、掲載を正当化する目的も認められない」として、引退したタレントの近況の記事化には本人の同意が必要と判断した。

 ただ、社会事象を紹介する意味で、活動当時の写真を掲載することに違法性はないとした。

(2007/04/13 18:20)

 こんこんをSTKしようとたくらんでいる3流ジャーナリズム諸氏も気をつけるように。
 でも、これは民事訴訟なんでね。被害を受けた側が訴えない以上はどうもこうもないっすよ、なんで。
 なので、これからもう一度芸能界で一花咲かそうと思ってる人は出版社を訴えたりはしなさそう……ってそんなことまで書かなくていいぞ自分!

| ヲタ界隈 | 09:38 | comments(2) | -
倫理的責務としてのTK氏批判
 もう二度と、読むこともないだろうと思っていた。
 加護ちゃんの一件で、つい読んでしまい、そうして、やはり後悔した。
 やはり誰かが、TK氏をきっちり批判してあげないといけないという、倫理的な責務にも似た感情を、ひしひしと覚える文章だったから。

 以下、引用は、「モー神通信」TK氏 2007.3.28から。

 モー神は加護ちゃんの復帰と共に再開する予定だった。

 つまり、サイトを休止して、加護ちゃんとともに謹慎。そして、再起とともに復活。という計画を立てていたわけですね。
 そういうのは極めてナルシスティックな演出だとは思いますが、個人の自由なのでいいです。問題なし。

 サンタモニカはそのための前フリだったんだけど

 そして、そういうナルシスティックな演出のための「前フリ」として、別名のサイトに変わったことにしていた(最初から「モー神」の再開を念頭に置きつつ)。
 つまり、本心から吉川さん推しのサイトとして生まれ変わる気はなかった、ということなのでしょう。たんなる再開のための「前フリ」だったと言うのですから。
 そんなナルシスティックな演出に利用された吉川さんは、いい面の皮ではないでしょうか。

 しかし、その点もまた、たいした重要問題ではない。
 問題点は、次の部分。

 世間の誰もが、分別のつく年齢として加護ちゃんの責任を問い、彼女を責めるだろう。それでも、私は、こちら側の人間として、こんな大人ばかりでゴメン。こんな世界でゴメンと、加護ちゃんに謝りたい。加護ちゃんがいるのにふさわしい世界にしたいんだけど、そんな世界を信じたこともあったんだけど、こんなに無力で、本当にゴメン。

 ここに言われている「加護ちゃんがいるのにふさわしい世界」という考え方が最大の問題だと考える。
 この表現には、この現実世界は、薄汚れた大人の世界であり、「加護ちゃんにふさわしくない」という前提がある。
 では、「加護ちゃんがいるのにふさわしい世界」とは、一体いかなる世界なのか?
 親元から加護ちゃんを責任をもって預かったはずの大人、加護ちゃんの仕事をちゃんとプロデュースできなかった大人、加護ちゃんの満たされない心につけ入った大人、お金のために加護ちゃんの私生活をつけ回した大人
 おそらく、そういう大人のいない世界こそ、加護ちゃんにふさわしい、ということなのであろう。
 そして、そのような世界は実在しない。
 むろん、理想論としては、そのような世界が実現することは素晴らしいことかもしれない。
 しかし、それはユートピアであり、それを望むのは一種の「ピーターパンシンドローム」(子供でいたい症候群)に過ぎない。

 今の加護亜依に必要なことは何か?
 それは「加護ちゃんがいるのにふさわしい世界」が実在しないことを加護ちゃんとともに嘆いたり、それが実在しないことを、大人の責任だと感じて謝ってもらったりすることではない。
>>続きを読む


| ヲタ界隈 | 14:04 | comments(0) | -
斧屋さんの論文『アイドル「オタク」の宗教性』についてのメモ



http://www.geocities.jp/moaning_moron/
盲信 妄論

 に掲載されている斧屋さんの卒論『アイドル「オタク」の宗教性』についてのメモ。気になる点いくつかについての覚書です。

 こういうふうに、アイドルとヲタの関係を真剣に考察しようという試みは貴重なものだと思いますし、自分としても方向性は違えど、いずれ考えてみたいテーマでもあります。
 そこで、自分が考えるための覚書として以下を記しておきます。


2ちゃんねる



 2ちゃんねるの影響をまったく受けていないヲタも多数いるということ。
 別の掲示板(センラン、ASA板など)も大きな勢力として無視できないのでは。
 たしかに、2ちゃんねるにおいてはモーニング娘。は大きな存在です。
 また、最近の「ハロモニ」で2ちゃんねるが意識されていたり、2ちゃんねるは重要ですが、それだけを強調するとバランスに欠けると思われます。


マジヲタの定義



 「マジヲタ」はひとりのメンバーに執着する、とされていますが。
 「アイドル」をマジで応援することと、「単推し」とは別の概念だと思われます。
 「マジヲタ」の推し対象は一人であるべきだ、ともし斧屋さんが思われているとしたら、それは「マジヲタ」は「推しメン」に対して擬似恋愛感情を持つものだから、という思想が前提されているからでしょうか?
 しかし、擬似恋愛感情はなくても、マジヲタは成立します。
 たとえば、モーニング娘。を「実の娘」のように応援するという姿勢。
 実の娘であれば「ダメな子ほど可愛い」に繋がりやすく、また、実の娘は複数いてもおかしくないので、当然、マジヲタと複数推しが両立することになります。
 アイドルを女神として崇拝する場合でも、女神は複数でありうるでしょう。ギリシア神話に無数の女神が登場するように。


DDの定義



 DDは「誰でも大好き」。
 たしかにこの言葉が生まれた当初は、「浮気者」という否定的な意味合いがあったのでしょう。
 しかし現在では、あえて、積極的な価値をDDに見出そうというヲタも少なくありません(DD上等派?)
 つまり、「最愛の推しメンに注ぐ愛と同じくらいの愛をすべてのモーニング娘。メンバーに注ぐという姿勢」それは、むしろ高度に倫理的/博愛主義的な尊敬に値する態度とすら言えます。
 DDという言葉をそのように解釈し直そうという動きもあるので、「DD=アイドルを消費する、尊敬はしない」と書かれると、そうではないDDも大勢いるのでは、と疑問を感じます。
 DDとマジオタはやはり両立すると思うのです。


現場系/在宅系



 斧屋さんの考察では、在宅系ヲタのことはほとんど出てきません。
 (おそらくご自身が現場系なので、その記述が多くなったのだと推測しますが)
 しかし、ファンを総体として考えたとき、現場系と在宅系とではどちらが多いのでしょうか。
 在宅系は、ほとんど「視聴率」や「CD売上げ」といった数字としてしか現れないかもしれませんが、無視できない存在だと思います。
 (当然、「現場」ではその存在はゼロですが)


「現場系=ヲタ芸肯定派」?



 斧屋さんの論文には、ヲタ芸否定派の現場系ヲタが出てきませんが、実際には、ヲタ芸を打つ人のほうが少数派なのではないでしょうか?
 (DVDなどで観客席をみた印象にすぎませんが)


「キャラ」について



 東の言う「キャラ萌え」(データベース消費)とは、わたしの理解では、マンガやアニメを受容する際に、ストーリーや、登場人物の性格などを度外視して、その中に登場する記号化された「キャラ」に執着することだと思われます。
 つまり、どんな物語の、どんな登場人物であるかに関わらず、(また作者の固有性も無視して)「猫耳」「メイド服」「ルーズソックス」「体操着やらブルマーやら」「メガネっ子」etcであることによって執着の対象となる、という感覚。

 それに対して、モーニング娘。における「キャラ」とは語の通常の意味での「個性」、つまりメンバー各自の固有性の表現であると感じられます。
 モーヲタは「キャラ」という記号に萌えているわけではなく、キャラを持つメンバーを愛していると思われます。例えば、「ピンク大好きキャラ」であれば、石川でも紺野でも道重でもいい、とにかく「ピンク大好きキャラ」であればいい、という「キャラ萌え」のファンは、いたとしても例外的だと思います。(同様に「寒キャラなら石川でも初期亀井でも同じ」というファンも少ないのでは)
 モーニング娘。における「キャラが立つ」とは、あくまでメンバー各自の代替不可能な固有性を強調する属性として機能するものだと思うのです。

 ハロプロでもっとも自立した「キャラ」として成立したのはおそらく「ミニモニ。」ではないでしょうか。ミニモニ。商品は、ミニモニ。が実在の歌手であることを知らない子供にまで、あのCGのキャラクターを通じて認知されていたと思います。
 ミニモニ。関連商品(子供用の下着、服、靴、etc)はまさに、キャラクター商品でした。
 しかし、それでも、「大の大人」のファンたち(ヲタ)にとって、ミニモニ。という「キャラ」でさえあれば、それを構成するメンバーは誰でもいいというわけには行かず、矢口真里→高橋愛の交代は重大事でした。「キャラ」よりも、「辻加護というお子ちゃまに振り回されて苦労する矢口おやびん」という物語性が重視されていたと言えるかもしれません。

 従って、モーヲタが「物語消費」から「キャラ萌え」に移行した、と、本当に言えるのか、やや疑問であるように思うのですが。



モーニング娘。はヲタにとって、本当に宗教の代替物として機能しているのか



 これについては割愛しますが、「覚悟系」「修養系」という宗教分類と「マジヲタ」「DD」が対応すると言えるのでしょうか。
 綿密な検討と論証が必要だと思われました。
 それ以前に、宮台の「浮遊系」「覚悟系」「修養系」と言った分類も、いかなる場合に妥当といえるのか、また、宮台のいう「現世利益型」の宗教に近い態度に対応するヲタの態度なども考えうるのではないか、などなど、色々な論点がありうると思われます。


 以上、簡単に感想をまとめました。
| ヲタ界隈 | 16:22 | comments(0) | -
ヲタで卒論 〜解釈と操作のヲタ視線〜 へのコメント
ヲタで卒論 〜解釈と操作のヲタ視線〜 - エクストリームアイロニスト

へ寄せたコメント

# itaittei 『痛井ッ亭。と申します。onoyaさんはじめまして。
大変興味深い考察です。頑張ってください。
ところで、DDとマジヲタを二項対立として捉えるのはどうでしょうか。
一般的には、DD(誰でも大好き)と対立するのはいわゆる「推しメン原理主義」であり、マジヲタに対立するのは、「アイドルをネタとして楽しむ比較的客観性を保ったファン」となるのではないでしょうか? それを呼称する適切な名称はないのかもしれませんが。
「DDでかつマジヲタ」ということは十分成立すると思います。』

# itaittei 『痛井ッ亭。です。追記です。onoyaさんの論に言う距離のことですが。たしかにマジヲタはアイドルとの距離ゼロを志向する存在ですね。よい例が握手会でしょう。
では、その反対概念たるDDは距離無限を志向するか、と言えば違う気がします。
距離無限を実現するのは実は簡単で「非ヲタ」(=一般人)になってしまえばいいだけではないでしょうか。醒めた態度を装いつつ、糞席でヲタ芸に興じる人々も、やはりなおアイドルとの有限の距離を感じていたい人々なのでしょう。
 昔の西洋の言葉に「憎んでいるうちは、まだ幾分かは愛しているのである」というのがありました。愛の対義語は憎しみではなく、無関心ということでしょう。DDは無関心とは程遠いあり方ですよね。
 アイドルを崇拝の対象として神とのアナロジーで考察するのは面白いと思います。
 今後も楽しみにしております。
 失礼しました。』

| ヲタ界隈 | 17:43 | comments(0) | -
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