先日、某モヲタサイトで「文化的雪かき」という表現を見つけ、ぴんと来た。これ、村上春樹だべ? ちょっと調べてみると、記憶は正解で村上の『ダンス・ダンス・ダンス』という小説に出てくる言葉だった。
こういう、見るからに「村上印」としか言いようのない表現を、それと断わらずに使用するのは、なんとなく恥ずかしくて、僕なら、まあ、絶対にやらないけれど、その当時は、まるで流行語のように多くの人が使った言葉でもありそうだし、どんな言葉を使おうとその人の自由というものなのだから、それはそれでかまわない。
論点は、他のところにあって、ネット上の解説を見ると、村上はこの言葉を、皮肉で自嘲的な表現として使ったらしい。当の小説はとうの昔に売り払ってしまったので、確認できないけれど。
参考:
関心空間:文化的雪かき
フリーライター40歳定年説(google)
まあ、これを読んでも、村上自身が「文化的雪かき」という比喩に込めた狙いを正確に読解しているという保証はないのだが、とりあえずは、そうだ、ということで先に進もう。
雪かきは確かに、知的労働ではなく、肉体的単純作業だ。
しかし、北国に住んでいると分かるが、それは、必ず誰かがやらなければならない必須の労働だ。除雪のために札幌市などの自治体が組む予算は、市民の血税を雪の山に変え、市の財政を圧迫する。除雪を一日でもサボれば、とたんに市民生活は大混乱に陥り、都市機能は停滞を余儀なくされる。
個人レベルであっても、雪かきをしなければ出勤も出来ないし、屋根の雪下ろしだってしなければ危険だ。
雪かきとは、かくも重要な仕事なのだ。しかも、それは雪国に住んでいる以上やって当たり前であり、やっても別に誰が褒めてくれるわけでもない、というツライ労働なのである。ツライうえに無償(まあ、業者は別だが)の労働という点では家事にも似た、ということは「人生」にも似た、尊い労働なのである。
さて、翻って、村上である。フリーライターが雑誌に書くレストラン紹介記事の類い、というものは、そこまで、必須だろうか。確かにグルメの役には立ちそうだが、なければ生活に困るというものでもないだろう。それがなくても、人は、それが「ない」ということにも気付かないまま普通に生きていけるだろう。レストラン関係者は別として。そういう仕事を「文化的雪かき」という比喩で表現する時、村上は上記のような「雪かき」の重要性を踏まえていたのだろうか。手元に、『ダンス・ダンス・ダンス』がない以上、確認は出来ないのだけれど、まあ、正直いうと、確認しなきゃ、という気も起らなかったりする。
その点、敬愛するウチダ先生(何故か熱烈に村上春樹を愛している)の認識は、まことに正しい。
それは『ダンス・ダンス・ダンス』で「文化的雪かき」と呼ばれた仕事に似ている。
誰もやりたがらないけれど、誰かがやらないと、あとで誰かが困るようなことは、特別な対価や賞賛を期待せず、ひとりで黙ってやっておくこと。
内田樹の研究室: After dark till dawnより
このまことに正しい雪かきに対する認識を、しかし、その表現の発案者自身は共有しているのかどうか。