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■『ハロモニ(ハローボーリング)』(北海道2007.02.09)
■HPC#1をテレビのモニターで
■B.L.T.3月号が素晴らしい
■可愛かった人たち
☆スペアを取るという課題で第一投を担当したえりりん。テンパッた時に出る、目をギョロっと見開くクセ。可愛い。
そして、見事7ピンを倒しての笑顔。意外に7ピンも倒せたので「すごくない? すごくない?」
と小春に話しかける、ちょっと得意げな様子とか。
藤本美貴さんが3ピンのうち1ピン取り残してしまい、床に寝そべって脚をバタバタさせて悔しがるえりりん。その健康的なふくらはぎがまぶしい。そして、壊れたような馬鹿笑い。うーん超可愛い。
☆せっかくゲットしたデパ地下グルメを、他のチームに横取りされそうになって、新垣里沙と道重さゆみがおどる呪いのダンスが可愛い。「逸れろ〜〜〜逸れろ〜〜〜」
(それと、ガキさん、あの天才少年をマネした投げ方は危ない。あんな風に振り回したら脱臼とかしそうだよ。ま、見た瞬間爆笑しちゃいましたけどね)
☆横取りしたタラバガニを、道重さゆみに見せつけるように食べる藤本美貴。それを奪い返そうと顔を超接近させるシゲさん、いいよいいよー。
カニがミキティの口に消えたときは、唇が触れるまであと2cmって感じで、何故かついでにキスでもしようか、って感じで唇を突き出してます。この二人、見せ場作るなあ!
■TVでようやくHPC#1が放送されました。ああ北海道(涙)
やっぱりPCで観るのと違って映像も音もクリア。オープニングの曲(の低音)が、なんとも素晴らしい。
■B.L.T.3月号が素晴らしい
まずはグラビアがよい。
表紙。光井愛佳の弾ける笑顔とVサイン。可愛い。
そして、みんなが明るい笑顔でカメラに収まる中、何故か、一人だけ憂いと切なさを湛えた表情の亀井絵里……無茶無茶気になる、この表情の意味が。
冒頭の見開きピージでは、全員が、笑顔を消して強い表情でカメラを見据えています。みっつぃも慣れない撮影を頑張ってます。でも、えりりんは……やっぱり強い表情というより、今にも泣きそうな表情。何かとてつもなく、心をかき乱される、この表情に。
そして、センターページの、『evolve』(発展、進化)と題されたグラビア&インタビューが、また素晴らしい。
☆どの子の写真も魅力を存分に引き出した美しい写真。
特に新垣里沙のキレイさは、もはやこの世のものとも思えない。その眼差しの強さ。深さ。圧倒的です。
立派にセクシー担当の愛ちゃんのおみ足が眩しい。
黒地に白とピンクの小花模様のワンピがさゆの肌の白さをこれでもかってぐらい引き立ててます。
そして、我らがえりりん。ダークグリーンのワンピ。微妙におばさんくさいデザインですよ? でも、それがこの切ない表情と合っていると言えなくもないようなそうでもないような……この写真の偉いところは外光の使い方。えりりんの肌が奇麗に白く光っていて、涙。
インタビューも実によい。
ガキさんのコメントは、すでにネット上で見てました。それ以外でも、特に6期のコメントはみんな素晴らしい内容。
絵里、さゆ、れいな、それぞれに自分の弱さ、ダメな部分を正直に語ってます。弱点を正面から語れるというのは、それだけ自分に自信が持てるようになったことの現れでしょう。それが素晴らしいと思う。ミキティも、弱点じゃないけど、自分の天の邪鬼なところを告白してて、いい感じ。
このインタビューは書き起こししたいなあ。誰か既にしてないかなあ……そのうちしよう……
更新が出来ませぬ……(号泣)
一時的なものならいいのですが……ああ、はやく復旧してくれえ
アドルノ『否定弁証法』は、相当荷が重いので、読むのはおそらく6月以降。えりりんの写真集については、とりあえず、『否定弁証法』を読まずに、書けるところまでは書いておきたい。
……
最近、感得したような気がすること。
弁証法について。マルクス主義以降、弁証法は、事物(現実世界=客体)そのものの発展過程の法則として妥当すると考えられた。
主体たる「正」が、対立する「反」との矛盾を乗り越え克服して、アウフヘーベンして、「合」という1レベル上の次元に到達する(合=1レベル上の正)。とされる。
(以下、個人的疑問)
しかし、アウフヘーベンが可能であるためには、そもそも「反」の中に「アウフヘーベン可能性」がなければならないのではなかろうか?
「反」とは「アウフヘーベン可能性」を有する「反」であるとするなら、それは「正」との間で実は同一性を有すると言えないか。絶対的な非同一性は、そもそもアウフヘーベン不可能であり、それは「正」によって、「反」と措定されえないのではないか。
「反」としてすら受け入れられない、絶対的非同一性のことを、レヴィナスやデリダは「他者」と呼んだのではないか。そして他者を歓待することこそが、倫理であると考えたのではないか。
世界を単一の経済圏としようと画策するアメリカ型自由主義経済という主体(正)にとって、イスラム経済というまったく異なる原理に基づく存在は、果たしてアウフヘーベン可能な「反」であったか。そこにある矛盾は乗り越え可能であったか。おそらく不可能だったのだ。
そこで、「正」は、その「反」たりえない絶対的非同一性である他者(イスラム)をどうしようとしたか。政治指導者を抹殺し、その内部に入りこんで、力づくで非同一性を同一性へと作り変えようとしたのではないか。
それは、おそらく「弁証法」ですらない。
弁証法的主体(正)は他の主体(反)がアウフヘーベン可能なら、それを取り込んで飼いならし、やがては、新たなる主体(合)の一要素として取り込む。非同一性は同一化される。
しかし、弁証法的主体(正)は、アウフヘーベン不可能な絶対的非同一性と対峙したとき、どういう行動を取るか。相手を抹殺するのである。
非同一性の完全な否定。
弁証法的主体は、絶対的非同一性を許容しない。いつかは同一化しうる存在のみを、「反」として容認する。
それは「他者」の否定。「他者の歓待」の拒絶である。
アドルノの「否定弁証法」は、このような、弁証法的運動によって抹殺される非同一性を徹底的に擁護する思想である。(おそらく……)
そこでは非同一性は否定されるべきものではなく、その生存が認められる。
弁証法的運動は、「反」を抹殺して、唯一の同一性である「合」へとは至らない。最終的な「至高の善」や「絶対者」へは決して至らない。
「正」と無数の「反」とが共存する。非同一性は、非同一性そのものとして肯定される。
……
さて、上記の押さえが妥当であるかどうか今は何とも言えないのですが。
もっと問題なのは、このアドルノの『否定弁証法』と亀井絵里がどう交錯するのか、という点ですね。
興味津々ですよね!? 乞ご期待! ←誰も期待してないから
僕にとって、(クサイ言い方だけれど)
いわば「愛の行為」だった
「愛」がなければ、わざわざ時間を割いて言葉を組み立ててまで
人と言葉を交わしたいとは思わない
言語行為は愛の行為 のはずだった
でも 一方的片思い ということも無論ある
押しかけ女房 ならまだしも ストーカーまがいの愛?
愛につかれたという訳ではないけれど
僕は 暑苦しい 青い コドモを卒業して
醒めた シニックな 大人になろうと思う
お行儀がよくて 冷淡な
大人になるんだ
大人になろうと思う
大人になるんじゃないかな
ま、ちょっと覚悟はしておけ
川o・-・)<反省の色が見られませんね。
とりあえず、今は、こんこんファンと、若干の裕ちゃんファンぐらいしか読者がいないのでね……
実態に合わせて、えりりんファンにも、「アイドルの脱紺築」を知っていただけたらな……と。はい。