(旧)娘。魂の唯物論的な擁護のために

当ブログは更新停止しました。記事は残す方針です。
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 ある疑惑の渦中にある人へ
 ある人が、ある疑惑を持たれています。そして、それは、どうやら言い逃れのできるものではなさそうな印象を受けます。
 しかし、普段、その人のことにほとんど触れない自分が、こんな時にだけ何かを書くと、まるでアンチみたいで、それこそ、「空気嫁」というか、「人間性に問題がある」とか言われても全然否定できないんですけど、その疑惑の渦中にある人は、おいらが愛する中澤裕子さんとも浅からぬ因縁のある人なので、一中澤裕子ファンとして、その限りで少しだけ触れておきたいと思うのです。

 とはいえ、この件に関しては、正直言って、「やぐみみ」のひろさんの25日の更新「みんなが笑顔であるために」と、アブバラのyiyeさんの27日及び28日の更新をお読みになれば、ほぼ、それに尽きると思います。以下、若干引用。


今回のことは誰か近しい人がちゃんと叱ってあげてほしいんです。



こういう話をするときは最初から決めてかかるのは究極的に間違いです。本来ならばソースの裏づけを完璧にしてからこの話題にふれるべきでした…が、まとめサイトしか見ていません。その点では本当に北海道の人を好きなのか?と自分を問い詰めたい気持ちです。

本当に身の回りの人のことであれば絶対に裏づけをとってその上で自分の判断をくだします。やれることを全てやらない限りその人を叱り、そして守ることはできないからです。
以上、「やぐみみ」より



誠実であることによって失うものもとても多いと思います。それでも、誠実であることによって手にできるものは、人として本当にかけがいのないものだと思うからです。




キリストを殺したものは そんな僕の罪のせいだ

 (中略)

あなたに何かを言おうとしている自分が、ものすごく恥ずかしくなりました。



僕の弱い心は、時には何の躊躇もなく不誠実な行為を容認してきました。そのことに気づいたんです。
以上、「Absolute Balance」より


 ひろさんと、yiyeさんの、ともに、疑惑の渦中にある人への深い愛情と、書くことへの厳しい倫理に貫かれた文章のあとに、付け加えるべきことはほとんどないと言うべきでしょう。

 それに、おいらは、奥さんに隠れてヲタサイトをやっている、という万死に価する罪深い人なので、疑惑の渦中にある人のことを、とやかくいう資格などハナから存在しないのは自覚しているところです。
 ですから、いわゆる「盗作」があったとして、そのことの法的問題や、執筆者、表現者としての自覚の問題に言及するつもりはありません。

 ですが、出来ることなら、モーニング娘。を深く愛する中澤裕子さんと同じようにモーニング娘。を愛していきたいと願うものにとって、ひっかかることがあるとすれば、それは、「モーニング娘。て、そういうもんとちゃうやんか」ということなのです。
 他人様の成果を拝借してまで背伸びして見せるのはモーニング娘。らしいでしょうか。
 そうではなくて、たとえ世間様から、痛い、痒い、恥ずかしくて直視できずつい目を伏せてしまう、素でトンデモだ、と思われてもいい、それでも、等身大のありのままの自分を出して勝負するのが、モーニング娘。らしさなんじゃないかな、という点なのです。
 例えば、他メンの食べ物が割としょっちゅう紛失する楽屋の現状だったり。人のお菓子を黙って食べておいて、「置いておくほうが悪い」と開き直ってしまう道重さゆみだったり。それは、人として「ちょっとどうなの?」と言わざるを得ない問題ですが、そういう部分までバカ正直にTVで全国に晒してしまうのが、モーニング娘。的誠実さ、というものでもあるでしょう。
 あるいは、カオリンの「心のスケッチブック」です。あの絵を、売り物として出してしまうことの痛さ。あれは、保田画伯や藤本画伯がどう、というレベルを遥かに越えて恥ずかしい。あれを自分の表現として提出できる、ということ自体が。
 でも、あれを出すことによって、飯田圭織は圧倒的にモーニング娘。なのだと思います。自分を飾らず、ありのままを晒してみせる姿勢がモーニング娘。的なのです。あれほど、カオリンらしい本はないでしょう?

 だから、疑惑の渦中にある人にも、いいものを提出しようと見栄を張って、間違った方向に頑張ってしまうのではなく、どんなにヘタでも、冴えなくても、見栄えしない言葉でもいい、自分の気持ちを自分の言葉でつづってほしかった、と思うのです。
 そうしたほうが、よほどファンの心を打つ詩が書けたはず、とも思うのです。
 あなたはモーニング娘。なのだから。

 (これは書かないほうがマシな余談ですが、どんな詞を拝借するかチョイスするか、という「センス」の問題と、黙って人の詞を拝借してしまう「意識」の問題とは、どこかでリンクしているような気がするのです)


 もう一つだけ。
 疑惑の渦中にある人に、公的な場で、きちんと自分の言葉で謝罪する機会を与えてあげてほしい、と切に願います。
 それは、渦中にある人が、自分一人で決められることではないような気がします。
 事務所側は、その機会を作ってくれるでしょうか。
 時間をやりすごして沈静化を待つ、あるいは、圧力をかけてでももみ消そうとしているようなら、余計に本人の傷を深めてしまうと思うのです。
 今はまだ、ネット上で話題になっているだけですからいいですが(こうして文章を書いてしまうことも騒ぎを助長する恐れはあるのですが、ま、うちは弱小なんで、影響力は無視できるかな……と言い訳)、これが、例えば、ブブカあたりのえげつない雑誌で叩かれ、それが、女性自身あたりの一般メディアに波及でもしたら……そうなって傷つくのは本人です。
 政治家の例をみても分かりますが、自分に非があったら、周りから責められるより先にきちんと謝罪することが大事で、それが傷を深くしないために一番有効な方法だと思われます。
 しかし、今のところ、事務所側は、寝ている子をわざわざ起こすまでもない、と思っているような気もします。
 それが心配です。



コメント

ほんとに難しい問題ですよね。
| yiye | 2004/11/30 3:27 AM |

yiyeさん、コメントありがとうございます。
盲目的な愛に導かれてヲタが無理な擁護をすればするほど本人の首を締めてしまう矛盾……
矢野顕子は「LOVE CAN'T BE BLIND」(愛は盲目ではいられない)と歌ったのでした。
「あいがあればなんでもゆるされる/そんなことはありません。残念でした。(中略)あいがあればなんでも越えられる/それは本当のことです。正解でした」
矢野顕子『ELEPHANT HOTEL』「愛があれば?(LOVE CAN'T BE BLIND)」より
| 痛井ッ亭。 | 2004/11/30 9:19 AM |




<追記>

http://tricolore.cocolog-nifty.com/blog/2004/11/_part2.html#comments

 「トリコロール」(管理者 : そうまかなえさん)のコメント欄に、以下の記述


 「母が子に聞かせる歌とプロが金を取って聞かせる歌はまったく違いますよね?」
 と「名もなきファン」さんが、お書きになっている、まさにその通りだと思います。
 例えば、「五木の子守唄」のような、古くから歌い継がれる歌は著作権者がはっきりしません。つまり、権利を侵害される主体が存在しません。
 モーツァルトやブラームスの子守唄は、著作権による保護期限がとうの昔に切れているので、その著作物は誰でも自由に使用できます。
 これらが、著作権の運用で規制される、ということは、まずあり得ないでしょう。
 しかし、作者、権利者の明らかな、新作の子守唄はどうでしょうか。
 個人がプライベートで歌うのは何ら問題がありません。そこには金銭的地利益が発生しないからです。
 利益が絡まない以上、法的な規制を受けないのも当然です。
 しかし、これを仮に、勝手に、CDにして出版したり、有料のコンサートで歌えば、問題が発生します。当然です。
 そこに利益が発生すれば、原著作者には、その利益から著作物の使用料を受け取る権利が生まれます。
 その権利を法的に保障するのが著作権法ですから。
 (ですから、チャーリーさんが懸念されているような、著作権を保護することが子守唄の規制につながる、というのは杞憂にすぎないと思われます)

 今回の件で問題になっている「引用元」は、著作権で保護されるべきものばかりであるようです。残念ながら。



| モーニング娘。 | 10:16 | comments(0) | -
現場(ライブ)、ヲタ芸、祝祭空間、メジャーであるということ
 おいらは、モーニング娘。関係のライブに行ったことがありません。いわゆる完全在宅系です。行きたくないわけではなく、チャンスがないのです。色々な理由で。
 ですから、無責任なことを書くのは嫌だ、という理由もあって、現場に関する意見は書いたことがありませんし、これからも書かないと思います。
 が、今日はちょっとだけ、在宅系から見たハロプロの現場(ライブ)について書きます。ちょっと無責任な、傍観者の意見として無視してください。

 他人に迷惑を掛けるようなヲタ芸が批判されています。
 飛ぶ、回る、振りマネ、ボード上げるetc.……
 しかし、そういう、常軌を逸した、常識に外れた過剰な熱狂、狂乱、錯乱、をも含み込むもの、すべてを受入れ、飲み込むものこそがモーニング娘。のコンサートなのではないか、その異様なまでの熱気こそが。……現場に行かない在宅系の目からは、そうも思えるのです。


 

祝祭空間



 世界には、奇祭と呼ばれる祭が、たくさんあります。その中には、参加者が危険に身を晒すような祭もあります。ある程度の危険(死者が出ることまで含めて)は折り込み済みなのです。
 例えば、スペインの「牛追い祭り」(San Fermin)です。
 あるいは、巨大な丸太の上に何人もの人を乗せたまま斜面を下る<天下の奇祭>諏訪大社 御柱祭です。たしか、イギリスかどこかにも、火のついた樽を担いで走る祭、みたいなのがあったと思います。

 危険を伴う祭は、みんなが楽しめるとは限りません。運よく楽しめることもあれば、運悪く不快な目にあうこともある……それが祭です。

 そして、モーニング娘。のコンサートもある意味、祭であり、そこは危険な祝祭空間なのではないでしょうか。さすがに死者まではでないと思いますが。

 もし、全員がマナーよく座って聴いて、曲が終ったら拍手をするようなコンサだったら? 楽しいのでしょうか? それが、誰もが期待するモーニング娘。のコンサートなのでしょうか?

 仮に、クラシックのコンサートのようにお行儀の良いコンサートでも、運悪く楽しめないことはいくらでもあります。隣にすごい美人がいて、気になって音楽に集中できない、とか。前の席の人の腋臭がすごいとか。ここぞ、といういい場面で、幼児が泣き出す、とか。

 音楽やパフォーマンスに集中できる環境が整えば、より十全にコンサートを楽しみたい、という要求レベルもそれにつれて高まります。ですから、何一つ不満なく、コンサートが楽しめる、という事態は、いずれにしても、奇跡ないし偶然の幸運に恵まれなければ、起り得ないことなのです。

 そして、コンサートに、どんな楽しみや喜びを見出そうとするファンも決して排除しない。誰もを受入れるのがモーニング娘なわけです。
 当然、黙って聴きたい人と、踊って騒ぎたい人やレスを貰うことに必死な人、との利益は対立します。でも、どちらもファンである以上、モーニング娘。は彼らを否定はしません。
 その結果、黙って聞きたい側が不利益を被る現状が生まれており、事務所や、コンサート主宰者側の無策が批判されますが、……誰もが、十分満足できるようにコンサートを楽しむことはどうしたら出来るのでしょう……

 「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損ソン」徳島の一大イベント「阿波おどり」の歌詞ですが、祭では、騒いで楽しんだほうが勝ち、という深い哲理を表わす言葉ですね。

 しかし、もちろん、自分の楽しみのために他人に迷惑を掛けてはいけない、というのは、常識です。当然のことです。理性的に振る舞えるのなら、是非そうすべきなのは自明です。しかし、そういう理性が無効になってしまう空間こそが祝祭空間なのではないでしょうか。


 

メジャー性、というもの



 モーニング娘。は、日本最大のメジャーなエンターテインメントの一つです。
 メジャーとは、受け手を選ばない、ということ。誰でもが楽しめるということ。
 例えば、ディケンズの小説は、小説読み巧者から、単純にお話に夢中になる子供まで、誰もが楽しめます。ゆえにメジャーなのです。

 モーニング娘。もまたメジャーです。
 モーニング娘。(ないしハロプロ)ぐらいの規模のエンターテインメントだと、ありとあらゆる人がファンとなります。その中に、ありとあらゆるバカが含まれていることもまた必然です。

 そして、モーニング娘。は、そのバカたちを決して排除しないのです。

 お行儀良くコンサートを楽しみ、他人にもお行儀の良さを要求するお利口さんたちが、もし、バカの顔を見たくないのなら、平原綾香や宇多田ヒカルのコンサートに行けばいいのでは、と言ったらさすがに言い過ぎですが……

 でも、自分が仮にコンサートに行って、もし不快な目にでも会おうものなら、おいらは、掌を返したように、「マワリスト氏ね!」「ボード厨ウザ!」と言い出しかねないので、だから、この文章全体が、在宅系だからこそ言える無責任発言に過ぎない訳ですけどね。


 

★もしも、おいらが現場に行ったら



 1、モーニング娘。コンサートの場合。

 最初は平静を装って、直立不動&腕組みでステージを鑑賞。いわゆるタイガーというヲタ芸(?)です。でも、こんこんがこっちに近づいてきたら、もうテンション上がっちゃって、思わず「こんこんー(涙)」と絶叫しつつ、手を振ります。でも、振りマネも出来ない、ボードも持っていないおいらは、気づいて貰える訳もなく、こんこんが最前列のボード君にしきりに頷いているのを見て、ビミョーに凹みます。で、もう、こうなったら、誰でもいいからレスくれ! とばかりに「やぐー! まことー! みきてー!」と叫ぶような元気がある訳もなく、また、元のタイガーに戻って、コンサートは終る訳です。そして、会場を出ながら、夢のような時間が終ってしまった、という事実に胸が一杯になり、路上に突っ伏して号泣です。


 2、中澤裕子ソロコンサートの場合

 裕ちゃんが、そこにいる。目の前で歌って、目の前で喋っている、という事実だけで胸が一杯になり、最初から泣いています。裕ちゃんのトークにツッコミを入れる余裕などもちろんなく、トークで裕ちゃんが面白いことを言えば、半べそをかきながら爆笑です。泣きすぎて頭が痛くなった頃にコンサート終了、アンコール前は、誰よりも大きな声(きっと)で「裕ちゃーん!裕ちゃーん!」と叫び続けます。アンコールが終って、裕ちゃんが消えると、その場に立ちすくんだまま、涙を流し続けます。そして、また「紳ミニ」ラストの時のように、もう一度裕ちゃんが出て来てくれるかも、という一縷の望みを捨て切れず、しつこく拍手&コールし続けます。呆れた会場係スタッフに、もう出てください、と言われ、しぶしぶ会場を出ながら、夢のような時間が終ってしまった、という事実に胸が一杯になり、路上に突っ伏して号泣です。


 ……どうしても、最後は号泣なのですね。





| ヲタ界隈 | 10:09 | comments(0) | -
ヲチスレwatching
 いつのまにか、ヲチスレが「人多杉」じゃなくなっていたので、性懲りもなく見にいってしまいました。

 人間って、悲しいね。

 そうしたら……まあまあ、知らないうちに、目一杯ヲチられれて、なんだかなあ。

 人間って、悲しいね。

 とりあえず、最近の痛い痛い痛井ッ亭。のヲチられっぷりをまとめておきますねー。

 以下、>>続きを見る……ってか、見なくていいです、別に。悲しくなるだけ。

続きを読む >>
| ヲタ界隈 | 11:15 | comments(0) | -
ラッキー7オーディションを肯定

ハロプロをなんでも肯定するというサイトで、ラッキー7オーディションを肯定されておりました。その中に鋭い指摘が。


考えてみれば、

オリジナル:福田明日香
2期:市井紗耶香
3期:後藤真希
4期:辻希美、加護亜依
5期:高橋愛、紺野あさ美、小川麻琴、新垣里沙
6期:亀井絵里、道重さゆみ、田中れいな

なんと中学生が加入しないのはモーニング娘。史上初めてのことなのだ。これに意味がないと思う方がどうかしている。

(中略)

「小学生・中学生では表現できない研ぎ澄まされた感覚。ある種大人の魅力」
「何かやり残したことあるなぁ〜というヤツ」

ここで我々はある人物を連想しなければいけない。

その人は一般企業に勤務する立派な社会人でありながら夢を追って「シャ乱Qロックヴォーカリストオーディション」に応募した。そして次々と加入する若い新メンバーとのジェネレーションギャップに苦しみながらも、モーニング娘。にそれこそ「ある種大人の魅力」を加え、ただ「若い子が群れてキャピキャピしている」だけではないところを見せつけ、幅広い層からの支持を集める要因の一つになっていた。

彼女が卒業した後のモーニング娘。のシングル売上が、実に30万枚も落ちたことを忘れたり無視したりしてはならない。彼女の卒業と後藤のソロデビュー、さらにベスト発売とASAYAN撤退がまとめて起きた2001年上半期こそ、モーニング娘。の歴史における大きなターニングポイントだろう。モーニング娘。の凋落の歴史というものがあるとするならば(というより「ブーム」から「定番」になっただけだと思うが)ここではないだろうか。そういう面も含めて、モーニング娘。をもう一度盛り上げるために必要なタイプと考えられてもおかしくはない。

本当に求められているのはエースではなく、第二の中澤裕子かもしれない。


いや待て。
中澤が「エースではない」と誰か言ったことがあるか?

センターに抜擢されない=エースではない?
誰が決めた?誰かそう言ったか?
間違いなく中心的存在だったし、間違いなく一番目立っていたぞ?

もしかして・・・


 裕ちゃんは、唯一無二の存在ですから、その代わりになる人などいようはずもありませんが、しかし、この見解は嬉しい。
 「第二の中澤裕子」が、求められている。とするならば。

 デビュー以来、若年齢化(メンバーも、購買ターゲットも)を押し進めてきたモーニング娘。ですが、このサイトさんでご指摘されている通り、今回のオーディションの特徴は、「中学生が加入しないのはモーニング娘。史上初めてのこと」という点にありそうです。
 これは、モーニング娘。大人化計画の始動なのでしょうか。

 Berryz工房、Wといった、子供向け(?)ユニットとの差別化を図る意図もあるかもしれませんしねー。


 余談ですが、中澤裕子の卒業時点が、頂点であり、凋落の歴史の始まりであり、大きなターニングポイントだ、という点にもまったく同感です。
 しかし、それは、その後がダメということではまったくなくて、5期は「凋落の時代」を生き抜く、という困難かつ現代的な課題を背負って登場した、ということだと考えています。
 神々の時代(1期)、英雄の時代(2、3、4期)が終り、人間の時代(5期)が、始まっていたのです。文学史になぞらえるならば、神話の時代(1期)、物語の時代(2、3、4期)が終り、小説の時代(5期)になる。もちろん、「小説」こそが、もっとも現代的であり、困難かつ自由な文学形式であることはいうまでもありません。
 「物語は死んだ」という認識で5期(以降)を批判することは、そもそもの歴史認識からして不当なのです。私たちは、「物語以後の歴史」を生きる5期の姿を見ているのですから。

 話がそれましたが、「ハロプロをなんでも肯定する」さん、素敵な文章をありがとうございました。
 本サイト、アイドルの脱紺築からリンクを貼らせていただきました。

| ヲタ界隈 | 10:01 | comments(0) | trackbacks(0)
痛井ッ亭。の「アクセス乞食放浪記」
 先だっての、どこからどうみても意気阻喪するしかないやりとりの
後片付け、というわけでもないのですが、一年あまりファンサイト(テキストサイト?)を運営してきた中で、自分がアクセス数というものに、どのように振り回されてきたかを振返ってみるのも、まあ、面白いかと思いまして。興味ない方は、どうぞ、スルーしてください。ろくなことは書いてないですから。

 では、「アクセス乞食放浪記」のはじまりはじまり。

 もちろん、最初は読者がいません。カウンターは主に自分が回している状態。でも、当初は、テイサイ界隈の存在もよくは知らなかったし、書きたいことをダラダラ書くために始めただけなので、アクセス数向上を意識もしませんでした。(去年の10/5開設で、10月中はほとんど来客なし)

 しかし、続けていくうちに次第に欲が出ます。
 読者獲得、アクセス数向上のために、色々なことを考えはじめます。
 リンク集への登録をしてみたり、相互リンクの依頼だったり。

 読者に来てもらうためには、とりあえずサイトの存在を知ってもらう必要があるので、リンク集への登録や、相互リンク依頼は有効でした。11月の始めくらいから徐々にお客さんが増えはじめます。ドキドキしてましたね。何せ、初心者だからねー。
 (何しろ「読者」という存在に出会うこと自体が新鮮な体験だったんですから。某所でやっている非ヲタ系サイトは宣伝も交流も何もしていないせいもあって、開設から7年経っても、トータルで700ヒット位=実質的に読者が存在しない、という程度なのですから)

 yiyeさんのサイトでアクセス解析というものを知り、自分も設置してみました。自分には、解析結果を分析して、それをお客さんの増加に結びつけるような技術は(今もって)ないのですが、どこかからリンクされたりしたときに、それに気づくことができる、という大きなメリットがありました。監視している、という意識はあまりありません。
 「解析が縁結びの神になる」という場合も少ないはありません。文中リンクしても「言及しました」と連絡をくれる人は少ないので、こっちから出向いて、「言及ありがとうございました」と挨拶してみたり。

 そのうち、自分からお願いしたのではないリンク集に登録されている、という驚愕の事態も起りはじめます。この界隈には熱心に新しいサイトを探している人がたくさんいるのですね。とビックリ。特に5kHzさんに登録していただけたことは、大きかったと思います。

 11月の末には、大胆にも2chへの宣伝書込みを敢行したりしてます。
 でも、この頃のログを振返ると、いかにも書きたいことを好きなように書いていて、普通に楽しそうです。年末ぐらいまで、そんな感じ。

 (別件ですが、今年の1月の頭には、もう裕ちゃんに関するまとまった文章を書いていて、この頃からすでに中澤裕子サイト化は着々と進行しているようです)

 今年の2月くらいからでしょうか、アクセス数が増えることが楽しくてたまらない、という状態。
 更新の特徴としては、他サイトへの言及、文中リンク(相互)などが増えてきます。明確に「界隈」を意識しはじめています。
 そして、アクセス数が増えると同時に、それが減るのが恐いという思いも湧いてきます。そして、アクセス数自体がプレッシャーとなってのしかかってきます
 どうやったら、お客さんに見放されずにすむか。
 自分の書きたいこと、ではなく、読者は何を喜ぶか、を探ることが多くなり、そして、それは、自分が本当に書きたいこと、とは、どんどん乖離していきました。
 そして、アクセス数を維持するのに大切なこと、毎日更新することだったり、最新の情報にはつねに言及すること、だったり、サイト管理人間の交流を維持し、「文中リンクでお互いに読者(=アクセス)に飛んでもらうこと」が、日々のルーティンとなり、ストレスが溜まってきました。
 しかも、ある程度サイトが知られるようになると(まあ、ごく一部でですが)、こんどは、界隈の中でしかるべき位置を占めたいなどという呆れてモノもいえないような欲求も出てきます。愚かなり。
 (でも、そういう悲壮な努力のかいあって、「アイドルの脱紺築」には分不相応な一日1000hitを越える日も、何日かは記録しました)

 で、色々事情もあって、3月くらいには、ムチャムチャ悩んでしまいます。毎日膨大な時間を使って、VTRをチェックし、文章を書き、という作業自体から来る肉体的疲労もこの頃がピークでした。マジで、一日中目がショボショボしていましたから。

 4月には、そういうことを続けていくのは不可能だと悟りました。
 で、週一、ないし隔週更新をめざす、と宣言。(これは最近になってようやく実現しつつあります)
 更新間隔を空けることは、読者を減らすもっとも効果的な方法です。アクセス数の呪縛からようやく開放されはじめた、と思います。

 そうして、ようやく、
 「最新情報のキャッチアップはしない」
 「毎日更新もしない。週一くらい」
 「読者の求める内容を考えず、好きなことを書く」
 という今のスタンスに辿り着きました。当然、アクセス数などは減りまくりですが、それは当然のことなので、特に痛痒を感じたりもしません。

 この「モーヲタテキストサイト界隈」で、サイトを始めた初心者が、アクセス数の多さに夢中になることは、ある意味仕方がないことなのかな、と、自分を省みて思います。
 なにしろ、ここにはしっかりした「界隈」が存在しています(=潜在的読者がいる=需要がある)から。
 (話がそれますが、モーニング娘。の今の人気があるのは、ネット上でのファンサイトの盛り上がりのお蔭だ、という意見を書き送ってくれた読者がいるのですが、わたしは、それは原因と結果が逆転していると思っています。モーニング娘。という絶大な人気を誇る存在があるからこそ、「界隈」がこれほどの賑わいを見せているのであって、その逆ではないと思います。「界隈」が消滅しても、モーニング娘。は困らないだろうが、モーニング娘。が消滅すれば、「界隈」も早晩消滅するであろう、と思われますし。当たり前ですね)
 だからこそ、「アクセス数」に囚われて、それがプレッシャーになり、思うようなことが書けない、という事態も起りがちなのが、この「界隈」の特徴なのではないか、とも思います。

 ですから、例のわたしの記述、麦生さんから批判された記述は、たんに「アクセス大手」を批判するものではなく、「アクセス数が多いからといっていい気になるなよ」という自分に対する戒めの言葉(=過去の自分への反省)でもあったわけです。そうは受け取られませんでしたが。
 「アイドルの脱紺築」程度のアクセス数(一年程で10万hit)でも、モヲタ界隈では大したことのない数字ではありますが、他のほとんどの個人運営の趣味サイトをやっている人からみれば、相当な数字には違いないですし、おいら程度でも、「一日千hit! スゲー」と言われることは実際にあるからです(そこの大手さんは笑わないようにw)。

オフ会などで「××さんは一日何千アクセスなんですか、へー、すごいですねえ」とおべんちゃらの一つも言われれば、そりゃあ悪い気はしない、

 つまりこれは、大手サイトに対する、あてつけ、嫌味ということにとどまらず、実のところ、自分が実際に言われた言葉でもあった訳で(さすがに「何千」ではないけれど)、アクセス数に囚われて、足掻き苦しんでいた過去の自分への戒めの言葉でもあるわけです。ご理解いただけるでしょうかしら。無理っぽい……


 ……なんだか、しょうもないことをダラダラ書いてきました。誰の役にもたちそうにはありません。
 例の、愚にもつかない見苦しいやりとりを通じて、確かに言えることは、余計なおせっかいをしたばっかりに、おいらが相当数の読者に愛想を尽かされて、もともと少ない読者をさらに減らしたであろう、ということだけですね(涙)。

 もうやめよう、こんなしょうもない文章を書くのは。
| ヲタ界隈 | 09:57 | comments(0) | -
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