わたしはネット上で文章を書くようになって以来、ずっと匿名で書くことを避けてきました。去年までは。
ただし、モーヲタサイトについては、性質が性質だけに、また家庭内隠れヲタであるという理由もあって、本名は明かさず、固定ハンドルで書くという方針でした。
ですから、2ちゃんねるのヲチスレに書き込むときも、痛井ッ亭。というハンドルで書き込んでいました。
しかし、去年の春頃からは、「匿名の拒絶」という方針を放棄して、匿名で2ちゃんねるにネタを書く、ということも行っています。
そこで、今回は、それに関連して、メディアの性質と言説内容の関係、匿名性というものへの自分の考えを書いておきたいと思います。
一般に匿名での発言は、言説内容や言説空間の暴力性を過度に増殖させると考えられています。事実、そういうネット言説に特有の作用が「炎上」などと呼ばれる事態に結びつき、社会問題化すらしています。
ネット上での言語コミュニケーションというメディア(掲示板やブログのコメント)の特質が、言説そのものに影響し、それを変質させる、という作用はたしかに働いています。
しかし、わたしは思います。
「匿名性」それ自体が悪なのではないと。
たとえば、大企業や官庁などの社会的権力の不正を暴くために行われる告発など、匿名性の力がプラスに働く場面もあります。すべての発言に「署名」を要求するならば、告発に伴う不利益を恐れて、告発が萎縮してしまうことになるでしょう。
わたしは、匿名というメディアの特質が、言説の暴力性を高めるという事情を、大きな視点(社会学的レベル)では認めつつ、それでもなお、匿名という方法/手段を、節度や良識を持って利用するということは可能だと考えるようになりました。
メディアは道具です。
道具は、人間の器官の延長です。
自動車は足の延長であり(自動車はしばしば「足」と呼ばれますね)、本や、ネットという道具は、読み/見るための目、語るための口、書くための手の延長でしょう。
であれば、それらのメディアに人間の行動が支配されるのは一つの転倒であって、人間はそれらを道具として支配/コントロール/利用できるはずです。
その可能性は、道具の特性を理解し、使いこなすスキルを向上させ、知識と良識を利用者が共有できるかどうかに掛かっていると思います。
ようするに「メディアとの関わり方」をめぐる文化の質を向上させることが重要です。
匿名性を過剰に恐れる必要はない。
そうかんがえて、私は「匿名」という方法を、時と場合によって利用するようになりました。
「署名」がジャマな場面というのもたしかにあるのです。誹謗や中傷という陰険な目的ではない場面であっても。
たしかに、匿名の言説空間には悪質な誹謗や中傷がはびこっています。
しかし、そのような言説空間の性質も、現実の人間社会の一側面が拡大したものに他なりません。
そこで、匿名性を悪用して、誹謗や中傷を行うか否かは、その発言をする人間の教養や品位や誇りにかかっている問題です。
2ちゃんねるに匿名で、ネタを書き込んでも、自分さえ匿名空間の厳しさに耐える覚悟があるなら、特に不利益はないと思いました。それが、この一年ほどの、「匿名」を利用してみたわたしの感想です。
しかも、匿名空間に愛が育まれる、という事態もありえることを、私自身が経験しました。これからも、目的にあわせて匿名を利用しようと思います。
ノノ*^ー^)<これ全部が、2ちゃんねるに
匿名でエロネタを書いたことの言い訳だってんですから、恐れ入りやの鬼子母神ですよ?
(注)
(ただし、「炎上」などの問題には、匿名性に加えて、ネットという道具に固有の情報へのアクセスの容易性/迅速性、発言への敷居の低さ、などといった要因もからんでいます。が、それらについても、対応の仕方が洗練されてくれば、将来技術的に回避可能になるのではないかと思いますし。
また、ブログにコメント欄を設けるのであれば、批判の集中砲火を浴びる可能性も織り込んで、慎重に発言すべきでしょう。それがイヤなら、コメント欄を封鎖すればいいだけの話です。危険を回避するための様々な手立て、方策を、ネット管理者は採りうるのですから。)