(旧)娘。魂の唯物論的な擁護のために

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「アイドルについて語るということ」(2007-07-18 - 七里の鼻の小皺)についての覚書
2007-07-18 - 七里の鼻の小皺



 七里氏の、このエントリに関する疑義を、備忘録として取りまとめておく。
 現在でも、「学会(笑)」界隈などで参照されることの多いエントリであるから、(本来なら敢えてそうする必要はないかもしれない(理由は後述)のだけれど)、疑義をまとめることにも多少の意義はあると考える。
 (以下引用文はすべて同エントリから)


現在のわれわれの問題は、辻希美の結婚が、はっきりとした出口として機能しないということにある。

 これが何故問題かといえば、「アイドルは恋愛してはいけない、ましてや結婚してはいけない」「結婚するならアイドルを辞めるべき」という主張が当然の前提とされているからであろう。


アイドルの結婚は、かつて物語の出口であった。

 「結婚したらアイドルの物語はそこで終了するのが本来の姿」という訳だろう。


われわれが、つんく♂を辛うじて信じるのは、彼がこのアイドルという物語を語り直そうと、すくなくとも当初は、愚直に願っていたからである。

 だが「われわれ」とは誰なのか。少なくともそれは私のようなファンを排除して成立する「われわれ」であるように思われる。そして、つんくが「アイドルという物語を語り直そうと」「愚直に願っていた」というのは、事実なのだろうか。(わたしには当時のことを実証的に証明する力はないので分からない)
 「アイドルと見られるのは結果論、モーニング娘。の本業はあくまでも歌手」と主張し続けるつんくを僕は知っている。彼自身が「イロモノ」視されつつ、したたかに「アイドル的存在」として生き抜いてきたことを考えると、彼が、処女性に担保されるような守旧的な「アイドルという物語」をモーニング娘。によって語りなおそうとしていた、という説は、にわかには信じがたい。
 つんく自身、『ASAYAN』という番組の中で「モーニング娘。をプロデュースする」という役割を与えられつつ、自身も「新人プロデューサーとしてプロデュースされる」立場であったし、番組を成立させるための駒だという自覚もあったはず。番組演出的に「悪役を演じる」ことにも自覚的だったはず。当然、そこで産み出されようとしている「アイドル」なるものについても批判的な視点(それが「テレビのネタ、壮大なヤラセ」であることをも含めて)があったのではないだろうか。


『ASAYAN』によって額縁がつくられてみると、なるほど、すべてが再び可能であるようにみえた。既存の物語を信じるのではなく、その額縁のなかで、あらためてアイドルの回復に向けて言説を組織していくことができるならば、それをいつか、われわれの物語と呼べる日がくるのかもしれない。われわれは、物語を信じたのではなく、物語の再話の可能性を信じた。

 「アイドルの回復」とはアイドルを「われわれの物語と呼べる日がくる」ということ。七里氏は「われわれは、物語を信じたのではなく」と書いているが、物語への信仰が完全に捨て去られていたのなら「物語の再話の可能性を信じ」ることもまた不可能ではないだろうか。「われわれ」の中で「物語」は生き延びている。アイドル神話の脱神話化は終了していない。そしておそらく、旧来のアイドル神話の回復を夢見る者こそが氏の言う「われわれ」なのだろう。


この数ヶ月で明らかになったことは、われわれが、この物語にどんな出口も想定していなかったということである。

 『ASAYAN』という番組はそもそも、制作する当事者にも、もちろんそのなかで「踊らされている」出演者たちにも、まったく先の見えない冒険、最初から大団円的な「出口」を想定していなかったのでは。(モーニング娘。自体が「紅白に出て終わり」、あるいは「三年持てば御の字」という弱気な将来予測はあったにせよ)
 つまりモーニング娘。にはそもそも「出口」など用意されていないのでは。それはモーニング娘。を作る側にとっては、決して「この数ヶ月で明らかになったこと」ではないだろう。物語には結末(出口)が必要なのだとすれば、モーニング娘。は反-物語であろう。


モーニング娘。は、インターネットを物語の基盤とした、はじめてのアイドル

 ほんとうだろうか。「基盤」はあくまでも、テレビという既存のメディア(及び雑誌・書籍などの既存の出版メディア)への露出にあり、ネットでのファンの盛り上がりは、基本的に既存メディア上における動向への反応なのではないだろうか。
 以前に、古参らしきファンのかたから「ネット人気がモーニング娘。を支えている」という内容のメールをいただいたことがある。ネットの盛り上がりが途絶えればモーニング娘。(やハロプロ)はダメになってしまう、という書き方だったが、わたしは反論した。モーニング娘。が絶大な人気を誇っているからこそネットが盛り上がるのであって、因果関係が逆転しているのでは、と。この考えは今でも変わらない。
 近年では、リョーカクこと両角誠氏のように、ネット上のファンにちょっかいをかけてくるテレビ番組製作者もいるけれど、例外的存在だろう。メディアの製作者は、ファンサイト、ブログの類いなどほとんど見ないし気にかけていない、という証言をいくつも目にしたし、それが現在でも実情であろうと考える。
 (ハロモニ@のSNS王国におけるファンの「意見」が、どれほど番組制作に反映したのか、わたしにはよくわからない。)


モーニング娘。が、もっとも興味深いアイドルでありえたのは、それがもっとも多くの言説を引き起こしたアイドルだからであり、そしてその言説が、強く物語の結末を望んでいたからである。

 ここにも論理の転倒があるのではないか。「それがもっとも多くの言説を引き起こした」のは、まさに、モーニング娘。が事実「もっとも興味深いアイドルで」あったことの証であり、因果関係が転倒していると思える。


「モーニング娘。」というグループ名の表記がすでに、閉じた物語への欲望を、句点によって体現していたことに注意しよう。

 これは、そう解釈することも可能ではあるが、脳内妄想にすぎないとも言える。事実としては「。」はタカハタ秀太氏のテロップ編集上の芸風であり、それが、グループ名に採用されたのは、番組MCのその場の思い付きである、というのが、番組の公式見解。この見解が事実にせよ、周到に演出されたものにせよ、それが表現するのは「MCの思いつきで「。」が付いたり付かなかったりしてもいいような軽い存在=企画モノ」という醒めた視線ではないだろうか。それはむしろ、「物語」への批判として機能するものであるとも言えそうだ。


今日もある人が、矢口を信じると主張する。最初は控えめに、しかしやがて、信じる気持ちを掻き集めるようにして。「(狼)」板の住人たちは、それは状況証拠からして、可能性の少ない身振りだといって、糾弾してくるかもしれない。しかし彼は、あの手この手で、矢口を信じる方法を紡いでいくだろう。

 この「信じる」とは、一体何を信じるのだろうか。「処女性」?「性交をしていない」という可能性?
 矢口真里本人が、最近、「恋愛を続けながらアイドルでいることは難しいと言われて、だったら芸能界を辞めてもいいです、と言った」こと「恋愛を終わらせるのは違うと思ってモーニング娘。を脱退した」ことを証言している(グータンヌーボ)。
 だが、問題は、そういう事実関係にあるのではなく、何故、ファンでありつづけるためには「信じる」必要があるのか、という問題だと思われる。(信仰そのものに内在するイデオロギー性の問題)


現実とは、したがって象徴的には、アイドルが排泄をしない極小の可能性に賭けるなけなしの勇気と、アイドルも排泄をすると考えることを自分に許す諦めとが、激しく衝突するときに開かれる間隙以外のものではない。

 その「間隙」を「現実」と定義する時点で、このエントリが、悪い冗談か、脳内妄想の一種でしかないことが明らかになるように思われる。エントリ全体が「冗談」なのだとしたら、それに、真面目に対応する者は馬鹿を見ることになる。(ネタにマジレスされてもw という)
 しかし、これが、仮に本気で書かれたエントリだとするなら……アイドルが排泄しないという可能性が「極小」であっても存在し、それを信じることが「勇気」だとされている時点で、これは電波系の言説だと思わざるを得ない。そういう「勇気」を持つことが、氏の言う「われわれ」であり「ヲタ」であることの条件なのだろうか。
 「アイドルも排泄をすると考えることを自分に許す諦め」、なぜ、それは「諦め」なのだろうか。それこそ、現実を直視する勇気を持たないことの告白であり、心地よい閉鎖的な「アイドルの物語」という繭の中で永遠に夢を見ていたい、夢から覚めたくないという願望、その願望を正当化するために「現実」を捻じ曲げようとするイデオロギー性の現われなのではないか。



いまモーニング娘。においてもっとも排泄をしないのは、むしろ道重さゆみだから

 そうだろうか。「実は黒い」という側面を強調し、「さゆみは人の豚ですけどね」と言い放つ、圧倒的に革命的な存在は、わたしにはむしろ、「アイドルだってオナラはしますよ」と『うたばん』で正直に申告した矢口真里の「ぶっちゃけ」精神を正しく継承し、より徹底しているように思える。(アイドルを演じることに自覚的な道重さゆみの批判的アイドル性については、これで語りつくせるものではもちろんないけれど)


(実際、「肛門は無いがウンコはする」などという議論は、言語のうえでありえるというだけの、悪しき衒学趣味に違いない)

 それはたしかにペダンティックだとも言えるけれども、そもそも人が排泄をするか否かを議論することが電波系。(ネタでないとしたら、という限定をつけるけれど)

アイドルという「不可能な恋愛」の物語を、あらためて立ち上げてしまったわれわれは、一体どのような結末を自らに与えることができるのか。言説を積み上げているだけでは、この恋愛は終わらない。そして、われわれは、この言説を膨らませることしかしてこなかった。いったい、すべてが、はじめからやらなければよかったことなのか? すべてが、いつか過ちに気づくための、わざとらしい迂回路だったと言うのか?

 「われわれ」以外のモーニング娘。ファンの中には、最初から、それが「わざとらしい迂回路」であることに自覚的、もとい、そのようは迂回はしなかった人が大勢いると思います。


出口のない物語を紡がせてしまうことは、この「不可能な恋愛」の罪である。

 この表現には、条件付で賛同できる。その「罪」は、断じてアイドルの罪ではない。アイドルに「アイドルの物語」を押し付けた者の罪、あるいは物語そのものの「罪」であろう。そこに物語批判の入り口が口を開けて「われわれ」の入場を待っているのだが。

「現実」と呼ばれているものに抗して、信じる気持ちを組織するために戦ってきた、その努力の意味自体は否定されない。

 そうだろうか。「努力」自体の方向性が根本的に間違っているなら、それを自己批判するべきなのではないかと、わたしには思える。


七夕の前日の、このような発言がぼくには心強い。

770 :名無し募集中。。。:2007/07/06(金) 20:17:35.82 0

ちょっとまて妊娠したとは書いてあるけどエッチしたとは書いてない

まだ大丈夫だ

 「心強い」、、、、。まるで、処女懐胎の神話を鵜呑みにするような話であるが、それを、


信じる気持ちを延命させようとする意志だけが、理性を聖性に乗り入れさせる。

 と持ち上げるのに違和感を感じずにはいられない。(わたしが、あらゆる宗教の欺瞞性を指摘するアドルノの徒だからであろうか)


理性を、そしてときには人生をさえ食い破って、吹き出してくる信じ易さ。つまり、人間の偉大さよ。

 「信じ易さ」は「偉大さ」なのだろうか。偉大だと持ち上げられれば、高価な壷を売りつける霊感商法や、安手の新興宗教や、オーラの泉なんかにも手もなく騙されてしまいそうで、他人事ながら心配になる。


アイドルの物語は、性と恋愛という謎に、謎としての豊かさを備給しつづける。したがって、アイドルにとっての心の仕事は、その物語を読ませるよう誘いつつ、その結末を隠蔽しつづけるという点にある。それは、「物語」めいた演技と「現実的」な暴露の演技との、あるいは、演じられる客体と演じる主体との、無限の弁証法に違いない。

 この一文は理解できる。だが、七里氏のエントリは、「現実的」であることを否定し、一方的に「物語」を持ち上げているように、わたしには思える。現実を直視しなければ、その弁証法は機能せず、いつまでたっても「アイドルの物語」は止揚されず、保守反動的な概念に留まるほかないのではなかろうか。


われわれの愛に値するのは、役に立たないものばかりだ。そして、アイドルへの愛は、その役に立たないものの重要性を、卑小な生活のなかでなお守っていくための、里程標としての役割を果たしてくれているのだ。

 この一文は理解できる。
 そして、「アイドルの物語」は、擬似恋愛やヲタの自慰行為の安寧秩序を保証するものとして、たいへんに「役に立」つわけだが。
 「役に立たないものばかり」が「われわれの愛に値する」ならば、ぼくたちは、「アイドルの物語」を逸脱し、それを批判するような「アイドル」こそを愛するべきであろうに。


 以上、とりとめなく疑義を並べてみた。
 このエントリを再読してみて、総論的に言えることは、このエントリからは「他者の痛みに対する想像力」を読み取ることができないということだ。ここには、ヲタの論理ばかりがある。「われわれ」の「われわれ」による「われわれ」のための「アイドルの物語」が称揚されるばかりだ。そこにアイドルをやっている現実の少女達への、少女たちの痛みへの共感はあるだろうか。普通に食欲と性欲にさいなまれつつ、食べ、排泄し、ダイエットし、オシャレし、恋愛もする少女たちの「現実」が抱える困難さに対する共感はあるだろうか。
 これだけの立派な文章表現ができる七里氏が、そのような想像力を持ち合わせていないとは思えないのだが、しかし、このエントリを読む限り、氏は、むしろ現実に直面することをあくまでも回避し、現実を「卑小」と見なし、「物語」へと逃げ込むことを「勇気」であると語るばかりだ。そこにある種のイデオロギーの働きを見ることは自然だし、そのイデオロギーと、いわゆる「ヲタの倫理」との密やかな共犯関係を疑ってみることも無益ではないだろう。

 以上の疑義とは離れるが、やぐっつぁんが、みきちゃんがモーニング娘。を「脱退」するにあたって、ののやかおりが出産を決断するにあたって、どれほど悩み、巨大な力と戦いながら、それを選択したか、ぼくたちは、容易に想像することができる。
 その「巨大な力」において、普段はアイドルになど鼻も引っ掛けない一般メディアや世間と、保守的な「アイドルの物語」の護持を切望する一部ヲタとの利害が一致し、アイドルのイメージを損なうアイドル、アイドルの掟やら約束やらを破ったアイドルへの包囲網を形成する連合軍となる。
 この連合軍の力は、「清純」を称揚する保守的性意識を守りたい世間と、「アイドルの職業倫理」という大義名分に支えられた文化産業の商業的合理性と、「アイドルに裏切られたくない」という身勝手なヲタの利害とが一致して、ほぼ鉄壁である。この連合軍は、これからも、「アイドルの規範」を逸脱し、「アイドルの物語」を綻びさせかねない危険な存在を次々と排除し続けるであろう。ぼくの愛しい推しメンたちも、いつこの連合軍による酷薄な一斉掃射を受けて、その地位を追われるか分からない。
 これら連合軍の利益の総体と、現実に生きて心に血を流して苦しんでいるアイドルたち、推しメンたちの人生とを、秤にかけるまでもなく、無条件で後者を擁護する者こそ、ぼくは「ファン」だと思いたい。
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